大正6年5月20日(1917年。
午前7時5分、玉井清太郎(24歳)が、「
三本葭
」(多摩川が東京湾に注ぐあたりの三角州。「日本飛行学校」の飛行場があった。現在の「東急REIホテル」(神奈川県川崎市川崎区殿町三丁目25-11 Map→)あたりか)から、「NFS玉井式3号」に乗って、東京中心部に向けて飛びたちました。「東京日日新聞」の写真班員も同乗。前年(大正5年)、玉井と
相羽 有
(21歳)は当地(羽田穴守町。現在は羽田飛行場の一部)に「日本飛行学校」を創設、その宣伝の飛行でした。
風は少しあっても、空には一点の雲もなし。東京芝浦(Map→)の埋め立て地に一度降りたあと、再び離陸して東京の町にビラを撒きながら飛行を続けます。ビラには飛行機が国防上いかに重要かが書かれていました。
愛国の士よ!!! 若き人は征空の士たれ!!!
と。しかし、3度目に飛び上がったとき、支柱の溶接部が壊れ、左の主翼が上に折れ曲がって墜落、爆発。2人は帰らぬ人となりました。
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前年(大正5年)の10月5日、羽田の空を初めて飛行機が飛ぶ。操縦するは玉井清太郎。この日が「日本飛行学校」の創立日となる ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『写真でみる郷土のうつりかわり(風景編)』(東京都大田区教育委員会) |
羽田穴守町の「日本飛行学校」の校舎。鉱泉旅館「 要館
」か。飛行場の三本葭までは多摩川を船で渡った ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『日本の空のパイオニア』 原典:「国民飛行」(大正6年4月号) |
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玉井藤一郎 |
玉井清太郎の墜落死のあと、弟の玉井
藤一郎
(後の玉井
照高
)が、 自分たちの故郷・三重県四日市
市(Map→)で、兄の追善飛行を試み、2度の墜落後、、3度目に成功させています。
玉井清太郎の死が象徴するように、飛行はまだまだ冒険的でした。
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兄・ウィルバー |
弟・オーヴィル |
人類が動力付飛行機での飛行に初めて成功したのが、 玉井の死の14年前。米国で自転車屋を営むライト兄弟(兄ウィルバー36歳、弟オーヴィル32歳)が成し遂げました(明治36年12月17日)。その日の最長飛行距離は259mで、時間にすると59秒。画期的な記録でしたが、彼らが民間人だったからか、または妬みとかもあったのか、世間からの風当たりが強く、彼らは生きているうちは栄光を手にしなかったようです。今や、世界一有名な兄弟でしょうか?
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日野熊蔵 |
德川好敏 |
日本では、7年後の明治43年12月14日、陸軍大尉の日野熊蔵
(32歳)が、代々木練兵場(現「代々木公園」(東京都渋谷区代々木神園町
2-1 Map→))で初飛行に成功。ただし、飛行距離については、目測で60mと「萬朝報」が報じただけで(他にも9紙が取材していたが飛行距離を報じなかった)、現場にいた地球物理学者の
田中館愛橘
と日野自身もこれを初飛行とする発言をしなかったことなどから、「非公式の初飛行」とされています。使用機はドイツ製のグラーデ単葉機。
5日後の12月19日、改めて「初飛行の記録会」が催され、今度は、陸軍大尉の徳川
好敏
(26歳)が、高度70m、飛行距離3kmを記録、これが日本での「公式の初飛行」となりました。使用機はフランス製のアンリ・ファルマン機。
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奈良原三次 |
国産の飛行機による初飛行は、翌明治44年5月5日、奈良原
三次
(34歳)が自ら製作した「奈良原式2号」を自ら操縦して達成。高度は4m、飛行距離は66mでした。ライト兄弟や玉井兄弟(清太郎、藤一郎)もそうでしたが、この頃の飛行は、製作者自らが操縦桿を握ることが多かったのですね。奈良原は日本で初めての民間飛行場も千葉県の稲毛海岸(千葉県千葉市美浜区 Map→)に作りました。玉井清太郎は、稲毛を訪れ、奈良原に教えを請うていました。
大正元年、米国で、近藤元久が操縦する飛行機が農場の風車塔に激突して死亡(航空機で死亡した最初の日本人)、翌大正2年には、3月28日の正午に「所沢陸軍飛行場」(現「所沢航空記念公園」(埼玉県所沢市並木一丁目13 Map→)ほか)近くで、木村鈴四郎・徳田金一両中尉のブレリオ機が墜落し(日本国内の航空機事故での最初の犠牲)、5月には
武石浩玻
が日本国内で墜落し死亡(日本国内の航空事故での最初の民間人犠牲者)。
吾妹子と春の朝に立別れ
空の真昼の十二時に死ぬ 与謝野晶子
12歳だった稲垣足穂が武石の事故後の機体を見ています。
・・・右翼が半つぶれになり、左のつばさが散々に砕けて、へし折れた支柱とゆがんだパイプに、ピアノ線が蜘蛛の巣のように絡まっていた。引裂かれた翼布からは、──ちょうど雨上りの砂利道に照りつけていた七月末の正午前の陽射のせいもあって──ゴムの香が頻りに発散していた。 血痕がついたジャケットや、左の肩先がズタズタになった茶革服や、スコッチ地の鳥打帽や、革ゲートルや、釦
どめの赤靴などよりも、この新らしい翼布のゴムの香りの方に僕は心を打たれた。飛行機に限らない、自転車でも自動自転車でも自動車でも、何でもゴムの匂いを伴ったものには血の予想があるということに、僕はこの時思い当ったのである。・・・(稲垣足穂『扇の港』より)
武石の死は足穂に大きな影響を与えました。足穂は関西学院を卒業後、上京し(大正8年18歳)、清太郎亡き後の「日本飛行学校」を訪れています。台風の被害で閉鎖されていましたが、相羽が「日本飛行学校」に併設した「日本自動車学校」(蒲田に移転する前、羽田穴守町にあった)で自動車免許を取得。足穂は科学好きであり、機械好きでもありました。
大正12年、「立川陸軍飛行場」(現・「立川飛行場」(東京都立川市緑町5 Map→))の整備が整うと、相羽はその使用許可を得て「日本飛行学校」を再興、優秀な飛行士が輩出しました。
朴敬元
(参考動画:YouTube/多摩川探検隊/「日本で夢見た女性パイロット~朴敬元の生涯~」→)、北村兼子といった女性飛行士も生まれます。
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佐貫亦男
『不安定からの発想 (講談社学術文庫)』。彼らの“「不安定」を受け入れる”発想に学ぶ |
荒山彰久『日本の空のパイオニアたち ~明治・大正18年間の航空開拓史~』(早稲田大学出版部) |
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サン=テグジュペリ『夜間飛行 (新潮文庫)』。訳:堀口大学。郵便飛行事業の死活をかけ、危険な夜間飛行に挑んだ人たちがいた。著者のサン=テグジュペリは自らも飛行家で、『星の王子さま』(Amazon→)の著者としても知られる |
ランドール・ブリンク『アメリア・イヤハート 最後の飛行〜世界一周に隠されたスパイ計画〜 (新潮文庫) 』。訳:平田 敬。女性飛行士・イアハートは、昭和12年、赤道上世界一周飛行に挑戦中、南太平洋上で行方不明となる・・・ |
■ 馬込文学マラソン:
・ 稲垣足穂の『一千一秒物語』を読む→
■ 参考文献:
●『日本の空のパイオニアたち ~明治・大正18年間の航空開拓史~』(荒山彰久 早稲田大学出版部 平成25年発行)P.40-42、P.215、P.217-219、P.336-342 ●「羽田の東京飛行場」(山本定男)※『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成8年発行)P.484-491 ●「玉井清太郎」※「デジタル版 日本人名大辞典+」(講談社)に収録(コトバンク→) ●『伊勢志摩のイカロスたち ~みえ民間航空史~』(平木國夫 酣燈社 昭和63年発行)P.102-103、P.137-140 ●『ヒコーキ野郎たち(河出文庫)』(稲垣足穂 昭和61年発行)P.9-16、P.65、P.85-86、P.111-113、P.159-161 ●「稲垣足穂 年譜」(萩原幸子)※『稲垣足穂全集(第13巻)』(筑摩書房 平成13年発行)に収録 ●『越えられなかった海峡 〜女性飛行士・朴敬元の生涯〜』(加納実記代 時事通信社 平成6年発行)P.6、P.256
※当ページの最終修正年月日
2023.5.20
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