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昭和29年9月13日(1954年。 夕刻過ぎ、芦田 均(66歳)が、当地(東京都大田区山王一丁目)の自宅より車で箱根に向いました。箱根に滞在中の内閣総理大臣・吉田 茂(75歳)と会談するためです。 吉田の長期政権の真っ最中でしたが、吉田の米国べったりの政策や、そのワンマンぶりから、近い政治家の間でも反吉田の気運が増していました。さらには、改進党(総裁:
芦田は前年(昭和28年)2ヶ月弱、イタリア、フランス、ドイツ、英国、米国などを巡り、これらの国の復興の目覚ましさ、米ソ対立の深刻さをつぶさに見てきました。そして、日本の保守勢力が合同する必要を痛感します。当時の社会党左派はマルクス主義べったりの親ソ派だったので、社会党に実権を握られると日本の主権が脅かされる(ソ連の支配下に入る)との危機感が、芦田にはあったのでしょう。 箱根で、芦田は、吉田から、吉田自身引き際を考えていることと、改進党の重光も引き際を考えているという話を引き出しました。芦田には改進党の中間派を引っ張っていく器量もあり、社会党の存立意義を理解し彼らと意見をすり合わせる知力もありました。この日を境に、保守合同が大きく前進し、同年(昭和29年)末には鳩山内閣が誕生、翌年(昭和30年。1955年)の「自由民主党(自民党)」(保守派が合同)の誕生へとつながっていきます。かくして、自民党と社会党の2大政党の構図(「55年体制」)ができあがりました。芦田の略歴を見ると、昭電疑獄で失脚したぐらいまでしか書かれていないのがほとんどのようですが、その後にもこんな活躍をしていたのですね。 自民党発足の原点に芦田がいましたが、芦田が現在の自民党(裏金にまみれ、“宗教”と癒着し、国民より米国や大企業を優遇)の姿を見たらさぞ嘆くことでしょう。 勝 海舟も「繋ぐ人」でした。 幕府と尊王攘夷の志士とを繋ぎ(これは倒幕勢力を勢いづける結果となりマズかった)、日本と西欧とを繋ぐのにも一役かっています。アジアの融和を訴え、日清戦争にも反対しました。 明治31年に催された 明治天皇(45歳)と最後の将軍・徳川慶喜(60歳)との会食も、海舟(74歳)がセッティングしました。旧幕府と倒幕サイドの人脈とを繋ぐことが、海舟の最後の大仕事でした(海舟は翌年1月に死去)。 海舟は、西南戦争後「賊軍の将」とされた西郷隆盛の汚名返上にも尽力しました(近年は西郷を美化し過ぎ。幕末の西郷はテロリストといってもいい)。東京上野の西郷像(Photo→)が除幕されたのは、明治天皇と徳川慶喜との会食があったのと同じ明治31年です。 海舟は下町っ子で、極度の貧困も経験しています。それゆえ、江戸の 「繋ぐ」ことは簡単なようで、実は、とても難しいことのようです。 「繋ぐ」ことは、双方から恨まれがちです。海舟も、倒幕勢力からはもちろん、幕府内からも敵視されていました。 強い勢力にはペコペコ、弱いと見ると蔑視してポコポコと叩くような近年の安っぽい政治家には到底真似できないことです。
時代も分野も違いますが、ボブ・マーリー(レゲエの先駆者の一人)も「繋ぐ人」でした。 故国・ジャマイカ(Map→)では、2つの政治勢力が対立・抗争状態にあり、ボブもその一方からの恨みをかって、襲撃されたことがあります(胸と腕を負傷)。ボブは歌で、「力」(武力)による政治を批判し続けていたのです。 2年後の昭和53年、ボブ(33歳)は、「ワン・ラブ・ピース・コンサート」で、「Jamming」(YouTube→)を演奏中、招待した両勢力のトップをステージに招き、和解の握手をさせています。「Jamming」の「jam」には、一緒にやる、混ぜ合わせる、つまりは「繋ぐ」意味もあるようです。
劣化版政治家やマスコミの影響もあって、日本も「差別」「金権」が大手をふって表通りを歩く嫌な国になってしまいました。「力」(武力や金)に寄りかかった政治を否定し(天皇も大切に思っていらっしゃると思われる平和憲法(立憲主義)を遵守し)、日本に住まう人たち全てが仲良く暮らせる当たり前の世の中を取り戻すべく、まともな人たちが繋がっていくことが必要です。具体的には、民主主義の要諦・選挙で協力すること。自民党に脅されて自民党になびくようになった情けない公明党が、「平和の党」に戻ることを期待しています。
まともな野党と、個人(子ども・学生、市民、学者、芸術家、在日外国人など)と、平和を志向する団体(市民団体・企業・政治団体・宗教団体など)が繋がることを願っています。 「東京新聞(夕刊)」に連載された辻村
クラウン(道化師)の
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考映像: ※当ページの最終修正年月日 |