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日本に住まう(昭和22年9月26日、「東京朝連第六小学校」が設立)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和22年9月26日(1947年。 、当地(東京都大田区)に「東京朝連第六小学校」(以下、第六小学校)が設立しました。

日本の敗戦によって、朝鮮は日本からの支配を脱し、独立国家を目指しました。朝鮮半島出身者にとって、日本の敗戦は「光復」であり「解放」だったのです。

戦前・戦中と兵器の生産で急成長した当地(東京都大田区)の工場街は、朝鮮からの安価な労働力に依存したため、多くの朝鮮人が住んでいました。「朝鮮人」といっても、日本は、明治43年、朝鮮(大韓帝国)を強制的に併合し支配下においたので、戸籍上の朝鮮人は存在し得ませんでした。併合によって、全ての朝鮮人は日本国籍保持者とされたのです。敗戦後「解放」された当地の朝鮮人たちは、さっそく、朝鮮民族の歴史と言語と誇りを取り戻すべく、子どもたちを日本の学校から退学させて、寺子屋式の朝鮮学校を開き授業をはじめました。大森・池上・馬込の朝鮮学校が統合して「第六小学校」ができました。

しかし、その後の朝鮮学校の道のりは平坦ではありませんでした。

GHQ(日本は昭和26年までGHQの占領下)は朝鮮学校での朝鮮語の授業を認めず、文部省は、翌昭和23年4月には、学校教育法違反を理由に、朝鮮学校の閉鎖を命じました。朝鮮南北の対立が激化しており、GHQは、朝鮮学校が北側の教育を展開するのを恐れたのです。

日本各地での朝鮮学校の閉鎖命令に対し、心ある人たちの全国規模の反対運動がおきました。

この時が芦田 均内閣(昭和23.3.10-10.15)で、文部大臣が森戸辰男もりと・たつお 戦前、アナキズムのクロポトキンの論文を発表したことで新聞紙法の紊乱罪により起訴され有罪となり、東京帝国大学も追われた(「森戸事件」))で、幸いでした。

森戸と在日本朝鮮人連盟は協議を重ね、「教育基本法・学校教育法に従うこと」「私立学校の自主性の範囲内で朝鮮人独自の教育を認めること」という覚書を交わし、事態の解決がはかられました(昭和23年5月5日)。それを受けて東京都は朝鮮学校を都立学校とし、将来的に私立学校に移管することを前提に教育費の全額援助を打ち出しました。「第六小学校」は、昭和24年、廃校になった私立東調布学園(東調布高女?)の用地(東京都大田区千鳥二丁目3-15 Map→)を購入し「東京都立第六朝鮮人小学校」として再出発します。

ところが、昭和25年6月25日朝鮮戦争が勃発すると、朝鮮の南側に加担する米国に引きずられるように、日本は朝鮮の植民地支配に対する自覚的反省を捨てて、一転して朝鮮学校に対して冷たい態度を取るようになります。第5次吉田 茂内閣の文部大臣・ 大達おおだち 茂雄戦時中の言行が問われて公職追放になったが昭和27年解除。翌昭和28年の参院選で吉田自由党公認で立候補し当選)が、「在日朝鮮人は外国人であり、外国人に義務教育を施す必要はない」との暴言を吐き、朝鮮学校は私立各種学校としてしか存続できなくなりました。「東京都立第六朝鮮人小学校」は私立に移管し「東京朝鮮第六初級学校」となり、現在に至ります。

昭和27年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本の主権が回復すると(沖縄、奄美諸島、小笠原諸島を除く)、日本政府は、朝鮮半島出身の“日本人”の「日本国籍」は失われたとします。朝鮮人はかつて強制的に“日本人”にさせられ、今度は強制的に“外国人”にさせられました。

こういった在日朝鮮人の苦難の歴史を顧慮して、大田区は昭和55年より、朝鮮学校とその保護者に補助金を支給しています。しかし、平成27年、自民党の拉致問題対策本部が朝鮮学校への補助金停止を訴えたことで全国規模では朝鮮学校への補助金は激減しているようです。地元のどの議員・議員候補・政党・会派が朝鮮学校への補助金停止を訴えているか調べてみてください。

北朝鮮の拉致問題・核保有問題・ミサイル問題などの解決が急がれますが、圧力をかけるといった対症療法的な対応は問題をこじらせるだけでしょう。そんなことは分かりきっているのに、圧力をかけるという政治ポーズで一定の支持を得ようとする輩がいまだにいるようです(問題を本当に解決しようとしているのか非常に疑わしい)。平成14年の小泉純一郎 首相と 金 正日キム・イルジョン 国防委員長との会談で、金が拉致は特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って日本人を拉致したと認め(戦前日本軍の一部も大陸で暴走した)、謝罪しました(「日朝 平壌ピョンヤン 宣言」)。日本も誠意を見せれば、未だ解明されていない点も今後明らかになってくることでしょう。明治43年からの日本による朝鮮の植民地支配と、それに伴う日本人による朝鮮人に対するまがまがしい差別・蔑視の事実を日本人が知り、謙虚な姿勢を取り戻すところからしか真の解決はあり得ません。現在も朝鮮や朝鮮人を差別・蔑視する人がいるとするなら、彼らが問題をこじらせ解決を遅らせています。

以下に、当地(東京都大田区)にゆかりある朝鮮出身の人物を紹介します。

金 素雲
金 素雲

韓国の釜山 プサン Map→出身の詩人・ 金 素雲 キム・ソウン が日本内地にきたのが大正9年(素雲13歳)。幼い頃、大韓帝国の 度支部たくしぶ (日本の大蔵省に相当する部署)の役人だった父親を、同族が放った銃弾で失っています。日本人と接触なしでは職務をなし得なかった朝鮮の役人は、祖国を愛する朝鮮人の目には「親日派」(国を譲り渡す許しがたい存在)に映ったのでした。朝鮮を愛しつつも、朝鮮人によって父を奪われた素雲は複雑な心境で日本の土を踏んだことでしょう。20歳ごろ、朝鮮の農民歌謡を紹介し日本の文壇で認められ、白鳥省吾、北原白秋岩波茂雄萩原朔太郎などと親交。当地(東京都大田区東馬込二丁目18-6 Map→)に住んでいた頃の白秋を訪ねたこともあり、朔太郎が当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 Map→)に住んだ頃、朔太郎の家のすぐ近くに住んだこともありました。大森警察署(東京都大田区大森中一丁目1-16 Map→)に半年ほど拘留されたこともありました。治安維持法違反でしょうか? それとも予備検束でしょうか?

川端龍子

“日本人”として活躍したプロレスラーの力道山も、日本統治下の朝鮮(現在の北朝鮮、 咸鏡南道かんきょうなんどう洪原郡ホンウォンぐん 新豊里 Map→)出身です。体格のいい力道山は、 百田ももた という日本人に目をつけられ、相撲取りにするため、警察権力も使って半ば強制的に日本に連れてこられました。力道山は17歳でしたがすでに結婚しており朝鮮には妻がいたのにです、ひどいことです。

金 素雲『天の涯に生くるとも』(新潮社)。装丁:李 禹煥(リ・ウーファン) 田中 宏 『在日外国人 〜法の壁、心の溝〜 (岩波新書) 』
金 素雲『天のはてに生くるとも』(新潮社)。装丁:李 禹煥リ・ウーファン 田中 宏 『在日外国人 〜法の壁、心の溝〜)(岩波新書) 』
『「朝鮮学校物語 〜あなたのとなりの「もうひとつの学校」〜』(花伝社)。韓国で広く読まれた本の日本語版。漫画やQ&Aや体験記などもあり親しみやすい 「ウリハッキョ 〜私たちの学校、私たちのふるさと〜」(音楽センター)。平成31年の憲法集会でも耳目を集めた「東京朝鮮中高級学校」合唱部によるアルバム。ウリハッキョ(朝鮮学校) への熱い思い、理解を求める真摯な思いが伝わってくる。「アリラン」と「赤とんぼ」を同時に歌う「アリラン-赤とんぼ」ほか
『「朝鮮学校物語 〜あなたのとなりの「もうひとつの学校」〜』(花伝社)。韓国で広く読まれた本の日本語版。漫画やQ&Aや体験記などもあり親しみやすい 「ウリハッキョ 〜私たちの学校、私たちのふるさと〜」(音楽センター)。ウリハッキョ(朝鮮学校) への熱い思い、理解を求める真摯な思いが伝わってくる。「アリラン」と「赤とんぼ」を同時に歌う「アリラン-赤とんぼ」が特におすすめ

■ 馬込文学マラソン:
北原白秋の『桐の花』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
村松友視の『力道山がいた』を読む→

■ 参考文献:
●「教育をめぐる確執/朝鮮学校の創立」(岡田孝一)※『大田区史(下)』(東京都大田区 平成8年発行)P.732-735 ●「植民地時代における朝鮮人の国籍・法的地位」(在日コリアン青年連合(KEY))site→ ●『在日外国人 〜法の壁、心の溝〜(第三版)(岩波新書)』(田中 宏  平成25年発行)P.43-45 ●『天の涯に生くるとも』(金 素雲 新潮社 昭和58年発行)P.13-15、P.122-123 ●『力道山がいた(朝日文庫)』(村松友視 平成14年発行)P.333-337 ●「朝鮮学校補助金 文科省が「再考圧力」 〜上からのヘイト 加速(こちら特報部)」※「東京新聞」平成28年4月7日掲載 ●「韓国文学を味わう/解放前までの文学」(三枝寿勝)site→ ●「日本人拉致問題」(礒崎敦仁)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)コトバンク→

■ 参考サイト:
●ウィキペディア/・東京朝鮮第六初級学校(令和4年7月25日更新版)→ 大達茂雄(令和4年8月27日更新版)→

※当ページの最終修正年月日
2024.9.26

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