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明治43年12月31日(1910年。 堺 利彦(39歳)が、「東京朝日新聞」に「売文社」の広告を出しました。
堺は2年前(明治41年)の「赤旗事件」(赤旗を振り回しただけの事件。しかも、堺はその挑発的な行為をいさめようとさえしていたのに)で
「売文社」は、読んで字のごとく「文を売る」のが目的の結社です。新聞、雑誌、書籍の原稿の執筆や編集、小説、随筆、慶弔文、意見書や演説の原稿の執筆、手紙、論文の代筆や添削、英、独、仏、露、伊、漢文の翻訳、広告のコピーライト、写字やタイプライト、子どもの名の命名まで、書くことなら何でも引き受けました。
「売文社」を立ち上げたのは、、同年(明治43年)5月より、当局による幸徳秋水ら社会主義者・民主主義者・博愛主義者の検挙が始まり(「明治43年のフレームアップ事件」(「大逆事件」と呼ぶのは事件の本質を見誤らせる)、ちりぢりになった彼らの拠点とし、励ましあい、そして皆で書きまくって稼ぎまくって“(社会主義の)冬の時代”を乗り切るためでした。正月を迎えることもままならない同士たちを思って、年末に立ち上げたのでしょう。
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和田久太郎 |
当初のメンバーは、大杉 栄(25歳)、荒畑寒村(23歳)、
尾﨑士郎が社員になったのは、解散半年前の大正7年10月頃(20歳頃)からです。その頃の尾﨑は、早稲田大学の学長人事に対する学生側からの抗議(「早稲田騒動」)の中心に立ったり、普選運動でもリーダー的役割を果たし、堺 や大杉らとともに「特別要視察人」として警察からチェックされていました(しょっ引かれたこともある)。尾崎には「売文社」をモデルとした結社が出てくる小説があります。
・・・彼等の仕事はなかなかいそがしい。日本に一つしかない(無論初めて出来た)職業であったし、それに、伴〔堺 利彦がモデル〕の交際範囲が広いだけに仕事が中絶するということはなかった。
大井〔高畠素之がモデル〕の担当は、T県から出た多額納税議員、Rの倅が新しい法学士の称号を得るために提出する卒業論文の代作である。うちあけて言えば、既に数人の法学士が彼の手によってつくられていた。・・・(中略)・・・その横では、呉服屋の番頭のような格好をした石塚〔遠藤友四郎がモデル〕が「日蓮、親鸞、法然、比較評論」という大物に手をそめている。「日蓮の教義と各宗派」といううすっぺらな本が積み重ねた原稿用紙の上に広げてある。これ一つが彼の種本だ。──彼は日蓮も知らなければ、まして、親鸞や法然について知る筈がない。しかし、原稿はひとりでに出来てゆくから不思議ではないか・・・(中略)・・・
蒲原〔北原龍雄がモデル〕は蒲原だ。彼はボロ実業雑誌の巻頭を飾るための「社会主義撲滅論」を一気に書きなぐっているし、遠山は、これはまた、若い未亡人が彼女と関係のある炭屋の親爺から金をせびるための手紙に憂き身をやつしている。・・・(尾﨑士郎『忘れられた時代』より)
上の文は、黒岩
「売文社」を舞台にした木下順二の戯曲『冬の時代』(Amazon→)にも、上の尾﨑の文にある「社会主義撲滅論」が出てきます。大日本義勇奉公会というところがいやがらせで注文してきますが、堺が「特別な意匠と推敲を要する」文章として、高額な料金を設定、半額を前金で払うことを伝え追い返します。
添田知道は尾﨑より1年前の大正6年(15歳)、玄関番として雇われています。来客の出方が威張っていたりすると啖呵を切って追い返すようなこともしましたが、堺は「笑殺してくれた」とのこと。ところがその添田、ストライキの総本山とも言える「売文社」で果敢にも一人でストライキしたところ、あっさり椅子を失います(笑)。添田は当時を「私の生中いちばんたのしかった」と回想しています。「売文社」はひとえに、どん底から這い上がってきた堺の魅力で成り立っていたんだろうと思います。
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| ロシアから亡命してきたコズロフ夫妻を迎えた「売文社」の面々。中列左のコズロフ夫妻の右が堺と為子夫人、その右が渡辺政太郎。後列左から3番目のメガネと髭の人物が山川 均、一人おいて左を向いているのが荒畑寒村、その右が高畠素之。前列中央で左右の人物に腕をまわしているのが村木源次郎。その右が和田久太郎、その右が添田知道 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『パンとペン(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)』(黒岩比佐子) |
「売文社」は堺・山川・高畠の合名会社でしたが、大正8年、その高畠が「国家社会主義」を唱えるようになります。高畠に遠藤友四郎、北原龍雄、茂木久平、尾﨑士郎らが同調、堺・山川ラインの人たちを“硬派”(頭が硬いという意味だろう)と呼んで盛んに批判するようになります。その動向に不満の橋浦時雄と近藤憲二は退社。山川と荒畑が筆禍で禁錮4ヶ月を食らっている最中、高畠派が「売文社」をすっかり牛耳ってしまいます。「売文社」は解散となり、名義を高畠が受け継ぎますが、それも同年(大正8年)8月に解散。しかして、「売文社」は内側から崩壊しました。
「国家社会主義」には“社会主義”とありますが、高畠が構想した政党の綱領の第一条には「国家国体に対する絶対的恭順」とあり、もはや、民主主義とは対極の考えになっていました(ナチスも「社会主義ドイツ労働者党」と“社会主義”を持ち出している)。
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| 林 尚男『平民社の人びと 〜秋水・枯川・尚江・栄〜』(朝日新聞社) | 黒岩比佐子『パンとペン ~社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い~』(講談社) |
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| 森 まゆみ『大正美人伝 〜林きむ子の生涯〜(文春文庫)』。“大正三美人”の一人と謳われた林 きむ子は、「売文社」になぜ出入りしたのだろう? | 『山崎 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 尾﨑士郎の 『空想部落』 を読む→
■ 参考文献:
● 『パンとペン』(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)(黒岩比佐子、小正路淑泰(年譜作成に協力) 講談社 平成22年発行)P.7、P.232-255、P.286、P.311-312、P.349-353、P.424、P.427 ●「劇団民藝「冬の時代」」(andromache)(季節のはざまで→)
※当ページの最終修正年月日
2023.12.31