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昭和20年12月30日(1945年。
、東京神田の一橋教育会館で「新日本文学会」の創立大会が開催されました。発起人の9名(秋田雨雀、江口 渙、
これら9名と文学で戦前・戦中を戦ってきた意識のあった間宮茂輔(46歳)ですが、会について事前に何らの相談もなく、発起人の話はおろか会員への推薦・勧誘もありませんでした。間宮は会場の入口に近い一般席に着席し、唇をかむ思いだったようです。「帝国主義戦争に協力せずに抵抗した文学者のみ」という会の発起人の資格設定があり、戦中、海軍の報道班員をした間宮は除外され、無視されたようです。 間宮がプロレタリア文学運動に接近したのは、昭和5年の春(31歳)でした。葉山嘉樹を訪れ「文芸戦線」(「労農芸術家連盟(労芸))の機関紙)に関わるようになります。しかし程なく、「労芸」 の国家権力への姿勢の曖昧さに物足りなさを感じ、 国家権力への対立姿勢をより鮮明に打ち出していた「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)で中核をなした作家たちで結成した「(日本プロレタリア)作家同盟」に身を移し、そこに籍をおいて、「日本労働組合全国協議会(全協)」の一般使用人(デパートや個人商店の使用人)によって組織された組合の東京支部のリーダーとなりました。「全協」は水面下で日本共産党(当時非合法だった)の指導を受けており当局の標的となり、間宮も昭和8年(小林多喜二が殺された年)下獄、2年後、「転向」を宣言させられ刑務所から出てきます。その後も「生産文学」という形で過酷な労働現場とそこでの労働者の抵抗を描いていましたが、昭和17年、海軍の報道班員として徴用されます。海軍の報道班員をやったといっても自らの意思ではなかったのです(そのとき徴用された53名の作家は皆、拒否できなかった。徴用拒否には「国家総動員法」より一年以下の懲役か千円(現在の500万円ほどか)以下の罰金が課せられた)。 戦後、それが「汚点」になっているらしいことに間宮は歯噛みしたことでしょう。「新日本文学会」の中心的メンバーになることもなく、流行作家として返り咲くこともなく、間宮の戦後が始まります。 なお、「新日本文学会」の発起人になった蔵原惟人も、中野重治も、宮本百合子も戦中、「日本文学報国会」(会長:徳富蘇峰。蘇峰は思想家・評論家の国策協力団体「大日本言論報国会」の会長でもあった)の会員になっています。「日本文学報国会」の会員になるのはおそらく当時“名誉”なことであり(安倍政権下の「桜を見る会」に参加してしまうくらいの感じか)、それを拒むことができたのは、内田百間や中里介山ぐらいでした。例外的に山本周五郎は陸軍から従軍要請をきっぱり拒否しています。内田、中里(敗戦前の昭和19年に死去)、周五郎あたりが、民主主義文学の騎手として相応しかったのではないでしょうか。 300年ほども前(天和3年3月。1683年)のことですが、かの井原西鶴(41歳)も「資格なし」とされたことがありました。前年(天和2年。1682年)師の西山宗因が病没、西鶴が催した一周忌に宗因の 俳諧の息の根とめん大矢数 俳諧のこの大興行(大矢数という)は、西鶴の俳諧との決別宣言でもあったのでしょう。西鶴は宗因の亡くなった数ヶ月後(天和2年10月。1682年)に浮世草子の第1作『好色一代男』を発行、大評判になっていました(大阪談林派の有力者はそこが面白くなかったのかも)。大矢数以降、西鶴は浮世草子の執筆に専念します。 昭和43年、警備員やタクシー運転手など4名を殺害し死刑判決が下りることとなる永山則夫(犯行時19歳)は、入獄してから読書と執筆を開始、デビュー作『無知の涙』が評判になりました。以後、自伝的作品を手がけ、第一作品集『木橋』で新日本文学新人賞を受賞、作家として認知されるようになります。死刑確定後、加賀乙彦や秋山
女性であるというだけの理由で、“資格”を失うことが普通にありました。特に宗教的修行の場(霊場)や、神事を起源とする場(相撲の土俵など)では、女人禁制・女人結界という形で顕著にありました。江戸時代に入ると支配を盤石にするため幕府は儒教(特に朱子学)を採用。支配者に服従することを「忠」、家長に服従することを「孝」として、それらを最高の徳としました。女性には「三従の教え」というのがあって、「親に従い」「夫に従い」「(跡取りの)子に従う」ことが美徳とされてきたのです(儒学には血で血を洗う野蛮な戦国時代を収束させるといった効果はあった)。女性の自由な恋情も身分制度や家族制度を破壊するものとして忌避されました。「清姫の物語」と「八百屋お七の物語」はともに恋情に一途な女性が主人公です。人々は、清姫とお七の奔放さに
男女平等思想は、アメリカ独立戦争(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)、産業革命(1750-1840)と並行して欧米で登場します。産業革命下での女性労働者の酷使の現実が、男女間の不平等や女性に対する差別の実相を明らかにしました。女性解放思想の先駆者・メアリ・ウルストンクラフト(娘のメアリー・シェリーは小説『フランケンシュタイン』の作者)は、「女性に対する教育」と「女性の経済的自立」なくしては、女性の人格の独立もないと主張しました(『女性の権利の擁護』(メアリ・ウルストンクラフト 1792年発行)。 明治以降、日本は、欧米社会に浸透しつつあった男女平等思想を意識して(欧米社会に追いつこうとして)、女人禁制などの撤廃に動きました。女性の選挙権については、戦前からその獲得のために国内でも闘ってきた人たちがいましたが実現させることができず、戦後、GHQの指導下でようやく実現(「日本国憲法」をGHQから押し付けられたと主張する人たちは、“押し付けられた”女性参政権のこともいつか問題視するのでは?)。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |