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小説の舞台は取り潰し寸前の伊達藩。そんな大変な時だというのに、藩の重臣、原田
実は、彼には一つの考えがあったのだ。藩を救う最後の切り札。これは、人に絶対に明かせない。徹底して自分を悪者にして、自分の名誉や命までもかなぐり捨てて初めて成し遂げえることなのだ。彼はこの過酷なシナリオを、一人、笑顔の裏に隠しているのだった。 シナリオは遂行され、そして、甲斐は逆臣の汚名を着て死んでいく、一人で。 この長大な小説『樅ノ木は残った』はこれで終るかのようだった。が、実はここから先に、本当のクライマックスがある。一人で死んでいったかのような甲斐だったが、彼のことを心から理解する一人の人物が、浮き彫りになる。やはりそうだったのだ。 彼は一人でなかった。意外にも、きわめて官能的に、かつ美しく物語は幕を下ろす。 『樅ノ木は残った』について
昭和29年7月から「日本経済新聞」で連載された山本周五郎(執筆時51歳)の代表作。 質屋「きねや」に勤めていた少年・青年期に周五郎は、すでにこの小説のアイデアを持っていた(木村『山本周五郎 〜馬込時代〜』)。周五郎は子どもの頃から貸本などで村上浪六を読んでいたので、村上の『原田甲斐』(明治32年刊)も読んだだろうか。当地(東京都大田区)在住時(昭和6-21年)、周五郎が当地の「みやこキネマ」で見た映画「原田甲斐」も村上原作のものではないだろうか(近藤『馬込文学地図』、日本映画データベース/村上浪六→)。村上の『原田甲斐』も原田を大忠臣に描いており、55年後の『樅ノ木は残った』に大きな影響を与えたと思う。また、『樅ノ木は残った』執筆の2年前(昭和27年)、中山義秀も『原田甲斐』という小説を書いている。甲斐を忠臣ではないが、悪人でもない凡庸な人物として描いている。周五郎は同作も当然意識しただろう。 作中の伊藤七十郎は、尾﨑士郎がモデルのようだ(木村『山本周五郎 〜馬込時代〜』)。 山本周五郎について
一人野山をいく少年 銀座の質屋に奉公 快作の連打 「読者から認められればよし」ということで、直木賞をはじめ賞の類はいっさい辞退。 大して尊敬もしていない人に選ばれるということを自尊心が許さなかった。軍からの報道班員としての従軍要請も辞退、総理大臣と天皇陛下が主催する園遊会の招待にも応じなかった。ひたすら書くことが供養であり奉仕であると考え、知り合いの葬儀にも顔を出さなかったという。 死の10時間前まで原稿用紙に向かっていたが、昭和42年2月14日、満63歳で死去。墓所は神奈川県朝比奈峠の鎌倉霊園( )。 ■ 山本周五郎評
山本周五郎と馬込文学圏昭和6年1月15日(28歳)、今井達夫と松沢太平のすすめで、鎌倉から当地(東京都大田区南馬込一丁目18-5 map→)に越してくる。今井の紹介で尾﨑士郎や鈴木彦次郎と付き合い始め、二人の紹介で講談社の仕事をするようになり、主に時代小説を書く。昭和21年(42歳)2月まで留まる。周五郎が当地にいた時期は15年戦争の期間とほぼ一致。 尾﨑士郎らと大森相撲協会を作り「馬錦」というしこ名で活躍。 なびくことをしない周五郎に、尾﨑は「曲軒」(へそ曲がりの意)というあだ名が付けた。 添田知道、筒井敏雄、花岡朝生、広津和郎、日吉早苗、石田一郎、平松幹夫、北園克衛、秋山青磁(写真家)(「きねや」での徒弟仲間)らと交友。 二男二女に恵まれるが、太平洋戦争中に妻(病死)と長男(空襲で行方不明)を失う。 後年、当地をモチーフにした小説『青の時代』を構想するが、当地での面白可笑しい出来事もしょせんは関係した作家だけにしか通じない自己満足と考え、筆が進まなかった(近藤『馬込文学地図』)。 参考文献●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.210-214 ●『山本周五郎 〜馬込時代〜』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.15-20、P.39-40、P.71-73、P.92-93、P.131 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.97-98 ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行 同年発行2刷を参照)P.4-20 ●『周五郎ノート(2)』 ※『山本周五郎小説全集9 樅ノ木は残った』(新潮社 昭和42年発行 昭和44年15刷参照)付録 参考サイト※当ページの最終修正年月日 |