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対案は「開発せず」(昭和3年1月31日、当地の4町に「京浜運河の開削と埋め立て造成」の賛否が問われる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和3年1月31日(1928年。 「京浜運河株式会社」(社長:浅野総一郎)の「京浜運河の開削埋め立て造成」の出願を受け、東京府知事が、当地(東京都大田区、品川区)の4町(羽田、大森、入新井、大井)に賛否を問いました。

浅野らは当地の海岸線付近をすべて開削し、埋立地を作って、そこに一大工業地帯を作ろうと考えました。「東京港」を「横浜港」同様、大型船の発着できるものにすべきとの考えは明治13年からありましたが、資金難で工事は進捗しませんでした。ところが、大正12年に関東大震災が起き、国内外からの援助物資を積んだ大型船が「東京港」に出入りする際、水深がないため危険を伴ったのを踏まえ、昭和2年、国も海岸線付近の開削に興味を示し出します。そして、東京府も動き出したのです。

しかし、海の開削と埋め立ては、当地に広がる歴史ある(鎌倉時代からとも。江戸中期より盛んになった)「日本一の海苔養殖の壊滅を意味しました。諮問の結果は、羽田と大森が反対で、入新井と大井が条件付きで了承(埋立地の一部無償払い下げが条件)となり、住民に分断が生まれます。羽田と大森は江戸時代から海苔養殖を生業とする人が多く、入新井と大井は明治以降の参入、思いと気合が違いました。

以後の反対運動は、羽田と大森に糀谷も加わり、三漁業組合が中心になって展開されます。品川や大師の漁業者も参加し、大きなうねりとなりました。1,500名もの関係者が東京府知事への面会を試み(昭和3年3月)、大森漁業組合の役員を父親に持つ 鳴島音松 なるしま・おとまつ (26歳)が天皇への直訴を試み、下獄(昭和3年6月)。鳴島が下獄する際には、「 貴船 きふね 神社」(東京都大田区大森東三丁目9-19 Map→ ※境内に「漁業納畢之碑 Photo→」がある)に大森の全漁業組合員が参集し、感謝と涙で見送ったそうです。皇居侵入罪としては最低の懲役6ヶ月で済んだのは、盲目の政治家・高木正年が紹介した弁護士が奮闘したからだそうです。鳴島の直訴は、政府と東京府に計画の再考を迫り、その後7年間(昭和10年頃まで)は、開削と埋め立てが一部凍結されました。

ところが、海苔養殖とは縁が薄い神奈川県の川崎方面から開削と埋め立てが進められていき、徐々に外堀が埋められていきました。第一次世界大戦でヨーロッパの産業が停滞したため日本の工業が飛躍、当地(東京都大田区)にも工場が増えていきました。工場からの廃液が海を汚し、海苔養殖の脅威となっていきます。

そして、開発が決定的となるのが、昭和39年の東京オリンピック前。大会への整備の影響を受け、昭和37年に東京都漁業組合連合会が漁業権を放棄、翌昭和38年春の海苔の収穫を最後にこの地での海苔養殖が終焉します。オリンピックに浮かれた人たちは、当地の誇り高き海苔養殖業者たちに一瞬でも思いを馳せることがあったでしょうか? 諏訪神社の「漁業納畢之碑」) 貴船神社の「漁業納畢之碑」) 大森児童館前の「漁業記念碑」) 大森児童館前の「漁業記念碑」) しかして、当地の海岸線はほぼ埋め立てられ、工場が林立、昔からの産業とその面影が失われました。

漁業権が放棄された5年後の昭和42年、当地(東京都大田区上池台)に越してきた加藤 幸子 ゆきこ (31歳。平成3年『夢の壁』Amazon→で芥川賞を受賞)が次のように書いています。

・・・先日、大森の海岸近くの町中を歩いていて、胸が締めつけられるような情景に出会った。溝の臭いのする細い水路に、フジツボに真っ白におおわれたべか舟が沈みかけていた。朽ちかけた舟端ふなばた に、一羽のハクセキレイがとまってさえずっていた。『二十年後の青べか』。そんな小説の題だけが、ふいに頭に浮かんできた。海には千葉も東京も神奈川もない。ヒトが自然ととけあった生活をしていたころには、そこにくり広げられる風物詩はどこでも似たようなものであったろう。べか舟、のり ひび 粗朶 そだ (細い木を束にしたもの)・竹・網をたてて海中の海苔の 胞子 たね を付着させる〕、野鳥たち、アシ原、これらは東京湾の原風景そのものであった・・・(加藤幸子『鳥よ、人よ、甦れ 〜東京港野鳥公園の誕生、そして現在』より)

加藤さんは後に、「東京湾の原風景」の一端を蘇らせるべく、ある活動を始めます。

かつて、当地には、日本一の海苔養殖場が広がっていた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「大田区海苔物語」(編・発行:大田区立郷土博物館) 小泉癸巳男(こいずみ・きしお)作「大森・海苔乾し」(昭和12年作)。 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「大田区海苔物語」(編・発行:大田区立郷土博物館)
かつて、当地には、日本一の海苔養殖場が広がっていた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「大田区海苔物語」(編・発行:大田区立郷土博物館) 「大森・海苔乾し」(作:小泉癸巳男きしお 作 昭和12年)。 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「大田区海苔物語」(編・発行:大田区立郷土博物館)

開発至上主義者は、「夢だ!」「希望だ!」「発展だ!」と、「開発」を絶対視しますが(自分たちのお金になるしね?)、「開発」には必ずや負の面があるので、慎重な議論と、そこで生活している人たち全員の同意(土地は、基本、そこで生活している人たちのものなのだから)が不可欠です。

昭和9年、丹那たんなトンネルができたことで、牧野信一の「思い出」は崩壊しました。

鉄道や道や駅の敷設も、利便性を高める一方、敷設時には、山や丘などの起伏が削りとられ、地下や山が 穿 うが たれ、自然が大規模に破壊されます。鉄道・道は「大地の傷」でもあるのです。駅とその周辺は人や活動が集中し栄えても、駅と駅の間は寂れる一方です。行き来のあった地域と地域が鉄道・道によって分断されます。都市部は鉄道が過密になる一方ですが、ローカル線が次々に廃線になり過疎化が加速。「国鉄の民営化」(昭和61年。第三次中曾根内閣時。国鉄の労働組合とそのバックの社会党を潰すことが目的だった)は失敗しつつあります。

大正12年頃から当地(東京都大田区)に住んだ尾﨑士郎が、急速に進んだ当地の「開発」について書いています。

・・・緒方新樹は出窓の上に両 ひじ をついて、彼がこの村に住んでからの過去を振返る。今や、すべての風景が一変した。雑木林は根こそぎ払い去られ、滑かな丘は斜めに削りとられて 赫土 あかつち の肌が現われた。幽厳な音を立てて鳴っていた竹林のあとには新しいテニスコートが出来、赫土傾斜面を土を積んだトロッコが勢いよくすべってゆく音は最近の四年間、彼の耳を離れなかった。この村の風致は大きな坂を越えて殺到してくる新しい侵入者によって片っぱしから切崩された。街道を挟んで両側に重り合っている小さい谷──日ぐれがたうすい霧がおりると椎の若葉のかおりがその谷の底からしっとりと流れてきたものであったが、しかし、今はその谷底には地ならしが終って借家建の文化住宅のトタン屋根が十月の午後の陽ざしの中に新しいペンキの色を照りかえしてならび、大根畑の青い線によって彩られていた勾配のゆるやかな丘は真っ二つに裂かれて、石を敷いた新道路が蛇のようにうねうねとのびている。・・・(尾﨑士郎『荏原郡馬込村』より)

長年ともに暮らし、目にも親しみ、思い出が刻まれた風景。それを構成する丘や木や緑を再び目にすれば、かつての思い出が蘇ってくることでしょう。それらが、「開発」「再開発」「経済効果」「発展」「進歩」「成長」の“美名”のもと、誰かの権力保持や金儲けのために壊されるとしたら?・・・ 許されません。

埴原一亟 『東京湾の風』。自らの生き様に、大森の海苔漁者が漁業権を放棄するまでの道のりを重ねる 「海の畑(NHKドラマ)」。漁業権放棄に追い込まれる海苔養殖業者の葛藤。漁業権を放棄した年の翌年(昭和38年)に放送された。出演:嵐 寛寿郎ほか、解説:加賀美幸子、山田洋次
埴原一亟 『東京湾の風』。自らの生き様に、大森の海苔漁者が漁業権を放棄するまでの道のりを重ねる 「海の畑(NHKドラマ)」。漁業権放棄に追い込まれる海苔養殖業者の葛藤。漁業権を放棄した年の翌年(昭和38年)に放送された。出演:嵐 寛寿郎ほか、解説:加賀美幸子、山田洋次
吉川 洋『高度成長 (中公文庫)』。17年間の高度経済成長は、日本にとって「甘いだけの果実」だったのか? 現代日本の原点に迫る 山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって 〜原発事故とコロナ・パンデミックから見直〜』(みすず書房)
吉川 洋『高度成長 (中公文庫)』。17年間の高度経済成長は、日本にとって「甘いだけの果実」だったのか? 現代日本の原点に迫る 山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって 〜原発事故とコロナ・パンデミックから見直〜』(みすず書房)

■ 馬込文学マラソン:
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
尾崎士郎の『空想部落』を読む→

■ 参考文献:
●「大正期の大森・蒲田・羽田/近代工業の展開」(山本定男)※『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成8年発行)P.261-273 ●「京浜運河の開削と漁業の破壊」(千本秀樹)※『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成8年発行)P.471-478 ●「海苔養殖のはじまり」「品川・大森での創始」「大森の海苔とり揺籃期」(藤塚悦司、北村 敏)※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.973-976 ●『大田区海苔物語』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成5年発行)P.12-14 ●『鳥よ、人よ、甦れ ~東京港野鳥公園の誕生、そして現在~』(加藤幸子 藤原書店 平成16年発行)P.40-44 ● 『大森界隈職人往来』(小関智弘 朝日新聞社 昭和56年初版発行 同年発行3刷)P.51-54 ●『牧野信一全集<第六巻>』(筑摩書房 平成15年発行)P.522、P.616、P.634-645 ●「中曽根元首相が私に語った「国鉄解体」を進めた本当の理由 〜「戦後政治の総決算」とはなんだったか〜」(牧 久)(現代ビジネス(講談社)→

※当ページの最終修正年月日
2024.1.29

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