
小池真理子の小説『欲望』は、三島由紀夫ワールドといろいろリンクしている。
稲妻が光る窓辺に寄って正巳
が一心に読んでいたのが三島の『仮面の告白』(三島が24歳で書いた驚異の告白文学)で、類子
は次の日曜日、この本を駅前の書店に買いに行く。中学生の類子にとってこれが初めての三島作品となる。特異な“性”を巡る葛藤を描いた点で、『欲望』全体が、『仮面の告白』とよく似ている。
中学の頃から類子は正巳に心惹かれているが、正巳は阿佐緒
という奔放な少女を愛する(3人は当地(東京都大田区)の公立中学校で同じクラスで席も近くだった)。ところが、その阿佐緒は
袴田
という年の離れた男と結婚してしまう。3人は繋
がりながらも、ずれていく。阿佐緒が生活をともにするようになった袴田は“有名な変人”で、三島を敬愛するあまり三島邸(東京都大田区南馬込四丁目32-8 Map→)と瓜二つの家を建てたりする。袴田はきっと「三島の偽物」なのだ。
三島の最後の大作「豊饒の海」は、20歳で命を落とす清顕との
輪廻転生を、清顕の学友の本多が一生涯にわたって実見していく物語だが、3人目の生まれ変わりの透
は「清顕の偽物」のようなのだ。透は悪業の末に失明するが、『欲望』の袴田も視力を失う。
『欲望』では同じ年に2度火災がある。1つ目は、昭和57年に実際はあった「ホテルニュージャパン」の火災で、もう1つは、三島邸そっくりに作られた袴田邸の火災だ(三島が自決したのと同じ11月25日に発生)。火災と三島、とくれば『金閣寺』が連想される。
『欲望』の最終章(第8章)は、「豊饒の海」の最終巻『天人五衰』の最終場面とほぼ相似形だ。
阿佐緒も死に、愛した正巳も死に、10数年が過ぎて、類子は、行方の分からなくなっていた袴田に会いにいく。「旅の終着点」を実見しようとするかのように。
・・・袴田の身体の下で、ロッキングチェアがわずかに軋
んだ。彼は聞いた。「あの男はどうしています」
「あの男?」
「あなたといつも一緒にいた青年ですよ。美しい、実に美しい青年だった」
私は楓の葉を両手でくるみこみながら、「亡
くなりました」と言った。「あの後、すぐに。海で……」
沈黙が始まった。長い長い、果てることがないと思われるような沈黙だった。
庭から洪水のようにあふれてくる光の中に、光が残した幻を思わせる袴田の、弱々しい姿が浮き上がった。
袴田はおもむろに口を開いた。「何故、いまごろ」と彼は言った。「何故、いまごろになって、私に会いにいらっしゃったのです。」 ・・・(小池真理子『欲望』より)
で、この小説のタイトルは、何故“欲望”なのだろう? 阿佐緒の真に望んだこと、正巳が真に望んだこと、袴田が真に望んだこと、そして、類子が真に望んだことに、思いをはせてみた。それから、袴田の秘書の水野が真に望んだことにも。「肉体のあるいは精神のエクスタシー」という定規を当てると、意外な人物と人物とを線で結べるかもしれない。
『欲望』について
平成9年7月(小池44歳)、新潮社から出版された。「直木賞」受賞後2年しての作品。平成17年、篠原哲夫監督によって映画化される(出演:板谷由夏、村上 淳、高岡早紀、津川雅彦ほか)。
■ 作品評:
●「三島文学を継承した、比類なき美しさをもつ現代文学の古典」(池上冬樹)
小池真理子について
昭和27年10月28日、東京都中野区で出生。父親が読書家で、家には天井まで届く書棚があった。母親は油絵を描く人だった。昭和33年(6歳)一家で東京都大田区の社宅に越し、
久が原
幼稚園(東京都大田区久が原五丁目29-26 Map→)、
久原
小学校(東京都大田区久が原四丁目12-10 Map→)で学ぶ。神経質で、原因不明の発熱・嘔吐・
夜驚症
に苦しむ。給食を全部食べることができず苦労した。
少女漫画の影響を受けて、漫画を描いて友だちに見せ始める。学校の図書館で本を読む楽しみも知った。小学校6年の時、小遣いを持って家の近くの東急池上線「千鳥町駅」前の本屋に赴き、『赤毛のアン』を購入。感銘を受け、繰り返し読み、読書の醍醐味を知る。
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近年まであった千鳥町駅前の本屋(Map→)。平成23年撮影 |
父親の転勤により、中学校1年のとき兵庫県西宮に(昭和40年12歳)、高校1年のとき宮城県仙台に転居(昭和43年15歳)。反戦デモ、フォーク集会に参加、高校内に制服廃止闘争委員会を結成し実行委員長となった。 学校を早退しては仙台にあったクラシック喫茶「無伴奏」に入り浸り読書や詩作に没頭。『無伴奏』(Amazon→)はその頃のことが下敷きになっている。三島由紀夫、坂口安吾、谷崎潤一郎、川端康成や、ボードレール、アポリネール、エリュアールやサガンなどフランス人のものをよく読んだ。詩の同人誌に参加、街頭で販売した。成蹊大学文学部英米文学科に入学、東京都吉祥寺で一人暮らしも経験。哲学研究会に所属し、ニーチェやカントやカミュなどに親しんだ。この頃から小説も書き始める。
卒業後小説家を目指して出版社に勤務するが、ハウツー本や占いやオーディオに関する書籍の編集にうんざりして、1年3ケ月で退職、フリーの編集者・ライターとなった。昭和53年(26歳)、エッセイ集 『知的悪女のすすめ』(Amazon→)を刊行、スポーツ紙に顔写真が掲載されるや、マスコミが一気に押し寄せ、翻弄された。世間から“悪女”のレッテルを貼られ、バッシングもされ、何年も苦しんだ。昭和59年(32歳)、マスコミから距離を持つ決意をしたため仕事は激減、小説執筆に専念。翻訳された海外文学を多く読んできたため翻訳文の文体から脱しきれず、自分の文体を模索した。サスペンスは構造が決まっていると敬遠してきたが、心理サスペンスという手法を知って開眼、初の長編書き下ろし『あなたから逃れられない』(Amazon→)を刊行。この頃より、藤田
宜永
と東京都港区のマンションで暮らす(同年結婚)。平成2年(37歳)軽井沢に建てた新居に移った。執筆を重ねるが、評価が定まらず、書くことの意味を疑い始め、極度の自信喪失に陥ることもあったという。
平成7年(43歳)、サスペンス路線をすっぱりやめて書いた『恋』が、藤田の『巴里からの遺言』とともに第114回直木賞の候補となる。受賞したのは『恋』と、藤原伊織の『テロリストのパラソル』だった。藤田は平成13年『愛の領分』で第125回「直木賞」(平成13年)を受賞。「直木賞」をともに受賞した唯一のカップルだろうか?
複雑な恋愛模様を緻密なタッチで描いたものが増える。軽井沢を舞台にした『冬の伽藍』(Amazon→)や、不倫に堕ちた2人の希望の物語『虹の彼方』(Amazon→)(平成17年 初の新聞連載小説)、過去に過激派に身を置いた女性と彼女をかくまった男性との再会を描いた『望みは何かと訊かれたら』(Amazon→)(平成19年)など。
■ 作家別馬込文学圏地図「小池真理子」 →
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| 小池真理子『あなたから逃れられない (集英社文庫)』 |
小池真理子『神よ憐れみたまえ』(新潮社) |
参考文献
●『欲望(新潮文庫)』(小池真理子 平成12年発行)P.20、P.40、P.43、P.466 ※「解説」(池上冬樹) P.484-493 ●「著者自作年譜」※『贅肉(小池真理子 短篇セレクション6 サイコ・サスペンス篇II)』(河出書房新社 平成9年発行)に収録 ●「小池真理子さん(作家の読書道)」(WEB本の雑誌→)
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21
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