近ごろ日蓮の本をじゃんじゃん読んでいる。
あまりに日蓮の本を読み、日蓮、日蓮とさわいでいるものだから、日蓮宗の信者の方が、お寺の行事にさそってくださったりもした。 それはそれで貴重な体験だった。
でも、私は日蓮に帰依するつもりは全くない。日蓮が気になるのは、当地(東京都大田区)が、日本有数の日蓮ゆかりの地だから。
読んでいるのはタイトルが『日蓮』という小説。ズバリ「日蓮」という小説だけでも、山岡荘八、武者小路実篤、村上浪六、南海夢楽、三上於菟吉、尾﨑士郎、大佛次郎、島田裕巳、大塚雅春・・・のとある。皆何でこんなにも日蓮が好きなんだろう? いや、少しは分かる。低い身分から、身一つで権力(政治権力、宗教権力)に立ち向かい、自分の信念を貫いた一生。キリスト者の内村鑑三ですら、日蓮のことを「理想とする宗教者」と賞賛したのだった。
ここでは、川口松太郎の『日蓮』を取り上げよう。
川口の「日蓮」の特色は、全編に渡って浜夕という女性が出てくることだろう。いうなれば、「色」のある日蓮像。
千葉県小湊
(map→)の漁村で少年期を過ごした日蓮は、武士の
末裔
ということで近所の漁民の子から虐めぬかれる。いつの世も異質なものを排斥しようという奴は多い。そんな中、姉のように日蓮をかばう一人の少女がいた。それが浜夕だ。孤立する少年・日蓮に浜夕は言う。
村中から愛されずとも、只
1つの愛があれば満足せよ
と。私だけはお前を愛するから悲しむなと。
しかし、そんな浜夕も年頃になって、鎌倉の侍の元に嫁ぐことになった。
白無垢
をまとって小舟で去ってゆく浜夕を見て、日蓮はその切なさに絶えかねて、仏門に入いる。
その後も、日蓮の激動の生涯のところどころで、浜夕が現れ、日蓮を支えた。
浜夕の夫が日蓮を守るために命を落としたとき、「何の面目あって工藤殿の亡骸にまみえん。我が仏道は地に落ちたるか、釈迦如来の怒りにふれたるか」と心乱す日蓮に、浜夕は静かに言う、
浜夕の髪を剃り落し、御授戒あそばして下さいまし
と。ここぞと、日蓮の手で髪を剃り落として尼僧になることを願い出るのだった。また、日蓮が浜夕に先立って入滅した後、彼女は・・・
川口の『日蓮』は宗教小説であるとともに、壮大な恋愛小説でもあった。日蓮が一人の女性に心を寄せたとて何ら不思議はない。むしろ自然なこと。偉大な人物も、我々と同じ一人の人間なのだから。
『日蓮』について
昭和42年、講談社から出版された川口松太郎(68歳)の小説。川口は日蓮の信者ではなかったが、晩年には、毎日、法華経を唱えていたという。同作は映画化されている。
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川口松太郎 ※出典:『昭和文学作家史(別冊1億人の昭和史)』(毎日新聞社) |
貰
い子。よく働き、よく学ぶ
明治32(1899)年10月1日生まれ。東京浅草
今戸町
(現・東京都台東区今戸 map→)の左官屋で育つ。「
石浜
小学校」(東京都台東区清川一丁目14-21 map→)に入学。小学校3年のとき、自分が貰い子と知る。小学校4年で卒業し、洋品屋、夜店で働く。落ちている賽銭を拾って買って読んだ古本や、大人にまぎれて入り込んだ活動写真館(映画館)で、文学的素養を培う。小学校が6年制になり復学。担任の励ましもあって、明治45年(13歳)、主席で卒業する。小学校の同級に溝口健二がいた。彼とは後年いっしょに映画を制作することに。
14歳で独立
山谷(現・東京都台東区清川・日本堤、東浅草付近)の質屋の小僧を経て、14歳で独立。古本の露天商をする。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』を愛読した。象潟
警察署(昭和20年浅草警察署に統合された)の給仕をしながら通信技術を身に付けた。同僚の弟が女形だったことから新派の楽屋に出入りするようになる。無線通信学校を卒業後、義務年限の3年間、江戸橋、栃木、埼玉の郵便局で、電信技師をした。「萬朝報」の懸賞小説で入賞。朝報社、大勢新聞で働く。近所に越してきた生田蝶介の知遇を得た。 講談師・悟道軒円玉の家に住み込んで、円玉の口述を筆記しながら江戸文芸にも触れた。しかし、純文学への思いが募り16歳で久保田万太郎にも師事。 17歳のとき『流罪人藤助』が講談雑誌に掲載され初めて稿料を得た。この時挿絵を描いた岩田専太郎とは生涯交友する。
花街での遊びから人情を学ぶ
また小山内 薫について脚本も学ぶ。帝国劇場の懸賞戯曲に当選。震災後(大正12年~。24歳~)は、大阪の小山内家に居候して、プラトン社に勤め、雑誌「苦楽」の編集にあたった。遊楽街に入り浸って生活を持ち崩したが、そこで人間の悲喜劇と人情をつぶさに見て、後の文学活動に生かす。
第一回直木賞を受賞
昭和2年(28歳)大阪十美人の一人の舞妓の照と駆け落ち同然に東京田端に所帯を持った。「てる」という名の喫茶店を開いたのはその頃。生活のために書いた小説が菊池 寛の目に止まり、昭和10年(36歳)、『鶴八鶴次郎』(Amazon→)と『明治一代女』(Amazon→ ※『明治一代女』も収録』)で第1回直木賞を受賞した。受賞後、編集者時代から付き合いがあった花柳章太郎の手によって、新派の舞台にぞくぞくと作品が乗るようになった。川口の作品は現在も新派の古典としてよく上演される。
昭和12年(38歳)、『愛染
かつら』(Amazon→) が田中絹代・上原 謙主演で映画化・上演され、大ヒット、川口を時代の寵児にした。
在原業平や和泉式部といった不遇だった人物に共感し、彼らの伝記も書く。映画化された作品も多い。戦後は大映の専務に就任。後妻は女優の三益愛子で、俳優の川口 浩は三益との子(長男)だ。昭和39年(65歳)、自宅の立て替えをかねて作った 「川口アパートメント」(東京都文京区春日二丁目)は高級マンションの代名詞となる。最晩年は一休禅師の連作『一休さんの門』(Amazon→)『一休さんの道』(Amazon→)を書く。
昭和60(1985)年6月9日死去。 満85歳。(
)。
■ 川口松太郎 評
●「少しカン高い歯切れのいい口跡は胸のすくほど明快で、言葉に飾りや無駄がなさすぎるほどだが、そのくせ表情はやわらかく、言葉の裏には俳優への信頼といたわりがちゃんと用意されている」(高峰秀子)
当地(東京都大田区)は日蓮ゆかりの地なので、川口の小説 『日蓮』にも、当地の「本行寺」(池上宗仲邸だったところで、日蓮はそこで亡くなった)。同寺院には、川口の親友の花柳章太郎と溝口健二のお墓が仲良く並んでいる。 花柳の墓誌を川口が書いている。
■ 作家別馬込文学圏地図 「川口松太郎」→
参考文献
●『日蓮』(川口松太郎 講談社 昭和42年発行)P.267-269、P.372-373 ●『空よりの声 ~私の川口松太郎~』(若城希伊子 文藝春秋社 昭和63年発行) ●『昭和文学作家史(別冊1億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.77 ●『人情話 松太郎(文春文庫)』(高峰秀子 文藝春秋社 平成16年初版発行 平成23年6刷参照)P.8-9
※当ページの最終修正年月日
2022.10.9
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