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役人職は隠れ蓑?(文化5年12月16日(1808年)、大田南畝、多摩川の視察をする)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左も右も大田南畝。左は 谷 文晁 たに・ぶんちょう 、右は 鳥文斎栄之ちょうぶんさい・えいし の筆 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/大田南畝(令和3年8月19日更新版)→

 

文化5年12月16日(1808年。 大田南畝おおた・なんぽ (59歳)が、幕命により多摩川(埼玉県と山梨県の境にある笠取山あたりを源として、下流域では東京都大田区と神奈川県川崎とを分かつ一級河川)とその周辺の治水状況の視察を始めました。穏やかに見える多摩川ですが、上流で雨が降ると暴れるので、為政者は普段からその状態と管理に気を配らなくてはなりませんでした。

この日は大森村で宇田川橋、土橋、石橋の修復状況を視察。翌日以降は、堤防の破損状態や六郷用水の取水口 (現在の東京都狛江こまえ和泉いずみ )の埋まり具合なども見て回っています。余暇にでしょうか、「安養寺」(当時は本門寺、新田神社と同様、江戸近郊の名所として知られた。東京都大田区西六郷二丁目33-10 map→)、新田義興が祀られている「新田神社」や、幕府の御用絵描きだった狩野家の墓がある「本門寺」などものんびりと巡っています。近所の農家で憩うこともありました。役人が業務以外のことをすれば「ちゃんと仕事をしろ!」と政治家や政治家もどきからすぐに言葉が飛んできそうな現在と比べ、南畝が役人をしていた文化・文政期は随分のんびりしてたんですね。

彼の『調布日記』Amazon→には、当地(東京都大田区)に滞在した翌年4月2日までの約3ヶ月半のことが記されています。 南畝の多摩川周辺の視察は、幕府から高く評価されました。

大田南畝ではピンとこないでも、 蜀山人しょくさんじん と言えば思い当たる方も多いかもしれません。「寛政の改革」を批判した狂歌、

世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶといひて夜もねられず

は、教科書でも紹介されているかもしれません。「文武(ぶんぶ)、文武(ぶんぶ)と、うるせえなぁ」ということですね。

「大田南畝」と「蜀山人」は同一人物で、彼は本名を「大田直次郎」といい、狂歌を作るときは「 四方赤良よもの・あから」、狂詩を作るときは「寝惚ねとぼけ 先生」とたくさんの名を使い分けました。彼の多面性を物語っています。多摩川を視察したのは74歳まで生きた南畝の比較的晩年にあたり、幕府の役人をしていた頃で、蜀山人と名乗っていました。変な名にも思えますが、享和元年(1801年。南畝52歳)幕命によって大阪の銅座に出張したのを期に、銅の異名いみょう 「蜀山居士」(中国の蜀山の重要な産物だったのだろう)から取ったものらしく、四方赤良や 寝惚先生などに比べるといたってノーマル。一説では、別称「四方山人」を読み間違えられた後(縦書きにすると確かに似ている)、それをそのまま使用したといい、こちらの方が断然南畝らしいです。

大田南畝

南畝は、寛延2年(1749年)、江戸の牛込うしごめ御徒町おかちまち(現在、手造り肉まんの店「フル オン ザ ヒル」(東京都新宿区中町なかちょう 37 map→)あるあたり)で生まれました。“フル オン ザ ヒル”はビートルズの「The Fool On The Hill」Wik→から取ったようですが(ご主人がビートルズ好き?)、南畝の生誕地にぴったりの店名です。 南畝には「 ふかし 」( ふか し)という名もありますね(笑)。

大田家は代々幕府の御徒衆おかちしゅうを務める貧しい御家人でしたが、南畝は幼い頃から学問・文筆にひいで、親は札差ふださしから借金して、国学、漢学、漢詩、狂詩を学ばせたとのこと。明和4年(1767年。南畝18歳)に出した狂詩集『寝惚ねとぼけ 先生文集』(師匠の松崎観海の漢詩集『観海先生集』をもじったもの。「 陳奮翰 ちんぷんかん・ 子角 しかく 」の名で書いている。平賀源内(39歳)が序文を寄せた)で評判になります。以後、四方赤良よもの・あから の名で狂歌会や五夜ぶっ通しの酔狂な宴などを開き、江戸に狂歌の大ブームを興していきます。南畝には国学や漢学の素養があったのでそれらをうまいこと取り入れた作風は知識人にも受けが良かったようです。

芭蕉の「はつしぐれ猿も小蓑こみの をほしげなり」をもじって、

俳諧の猿の小蓑もこのごろ
狂歌衣をほしげなりけり

と、恐れ多くも俳聖の歌を料理してこの自信!

天明6年(1786年)、10代将軍・徳川家治いえはるが死去して松平定信が台頭すると、田沼派の粛清が始まり、南畝にも陰が差してきます。南畝は天明3年(1783年。南畝34歳)頃から田沼時代に勘定組頭に登用された 土山宗次郎 つちやま・そうじろう の経済的支援を受けてきましたが、その土山が田沼の老中罷免(天明6年1786年。家治が死んだ年)の翌年(天明7年1787年)横領のかどで斬首に処されます。松平定信は文芸統制にも乗り出し戯作者なども法網にかかり始めました。

危機一髪の南畝は、敵の懐に飛び込むがごとく、松平定信が始めた登用試験に応募(寛政6年(1794年)。南畝45歳)、首席で合格。文政6年(1823年)に74歳で死去するまでの20年間は、(真面目に?)幕吏として生きています。冒頭で紹介した文化5年(1808年。59歳)の多摩川の巡視はその期間に属します。

とはいえ、在原業平ありわらのなりひら の「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」をもじって、

世の中にたえて女のなかりせば
をとこの心はのどけからまし

と、筆に衰えはありませんね。

辞世の歌も(異説あり)、

今までは人のことだと思ふたに
俺が死ぬとはこいつはたまらん

と、その期に及んでですから、やはり凄いです。

手造り肉まんの店「フル オン ザ ヒル」の店先のベンチで美味しい肉まんをいただきながら、南畝(資料が展示されていた) 「フル オン ザ ヒル」から外堀通りに出てJR「御茶ノ水」駅へ。駅の皇居側近くに南畝終焉の地を示す説明板がある
手造り肉まんの店「フル オン ザ ヒル」の店先のベンチで美味しい肉まんをいただきながら、南畝(資料が展示されていた) 「フル オン ザ ヒル」から外堀通りに出てJR「御茶ノ水」駅へ。駅の皇居側近くに南畝終焉の地を示す説明板がある

勝 海舟は6〜7歳頃、伯父の家で“蜀山人”によく会ったそうですが、蜀山人が生まれた文政6年(1823年)に亡くなっており(が生まれたのが1月30日で、南畝が死んだのが4月6日なので、2ヶ月間ほど重なっている)、が会ったのは2代目蜀山人(亀屋久右衛門)のようです。

野口武彦『蜀山残雨 〜大田南畝と江戸文明〜』(新潮社) 『万載 狂歌集〈上〉 (現代教養文庫)』(社会思想社)。江戸で最初の狂歌集。748首。四方赤良(大田南畝)選
野口武彦『蜀山残雨 〜大田南畝と江戸文明〜』(新潮社) 万載まんざい 狂歌集〈上〉 (現代教養文庫)』(社会思想社)。江戸で最初の狂歌集。748首。四方赤良(大田南畝)
興津 要『江戸の笑い (21世紀版・少年少女古典文学館 第23巻) 』(講談社) 山本周五郎『栄花物語 (新潮文庫)』。田沼意次は本当に“悪者”だったのか?
興津 要『江戸の笑い (21世紀版・少年少女古典文学館 第23巻) 』(講談社) 山本周五郎『栄花物語 (新潮文庫)』。田沼意次は本当に“悪者”だったのか?

■ 馬込文学マラソン:
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→

■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.343-345 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.100-104 ●『蜀山人全集(第1巻)』(吉川弘文館 明治40年発行 NDL→)P.271、P.275 ※『調布日記』を収録 ●『蜀山残雨 〜大田南畝と江戸文明〜』(野口武彦 新潮社 平成15年発行)P.10-12、P.25、P.79、P.249 ●『江戸文人おもしろ史話』(杉田幸三 毎日新聞社 平成5年発行)P.68-72 ●『大田区史(中)』(東京都大田区 平成4年発行)P.523 ●『江戸から東京へ(八) 〜小石川〜(中公文庫)』(矢田挿雲 昭和50年発行)P.318-319 ●『氷川清話(講談社学術文庫)』(勝 海舟 平成12年初版発行 平成27年40刷参照)P.305-306

■ 参考サイト:
●ウィキぺディア/・大田南畝(令和3年8月19日更新版)→ ・土山宗次郎(平成27年9月14日更新版)→ ●ウィキクォート/大田南畝(平成24年12月18日更新版)→

※当ページの最終修正年月日
2021.12.16

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