(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

北川千代の『洞窟から来た児』を読む(“洞窟”を出たお嬢さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このサイトで、作家を新たに追加するのは7年ぶりだ(7年といえば小学1年生がもう中学生!)。この7年、思っていたのが、何としても女性の作家を増やしたいということ。現時点では、取り上げている52名のうち、女性はたった9名だ。以前は女性の作家が少なかったので(特別視して閨秀けいしゅう 作家、女流作家などと言われた)、やむを得ない面もあるが、現在の女性の作家の活躍を思うと、取り上げている女性が少ないというだけでサイト自体を古臭く感じられる。

そして、次に追加するとしたら北川千代とずっと思ってきた。彼女の潔い生き方や、革新的な児童文学に惹かれてきた。

北川が21歳の時書いた『洞窟いわやから来た 』という戯曲がある。

生まれてからずっと山の洞窟に住み、洞窟の窓から、麓の村を眺めていた子どもが、麓の村に降りて来る。洞窟から眺めていた村は美しかったのに、降りて来てみると何もかもが思い描いていたものと違う。完全に美しいものなどないのだ。絶望して洞窟に帰ろうとする子どもに、年老いた宮司が優しく諭す。

い児よ。もう洞窟へは戻れぬぞ。一度出て来やれば、二度と戻れぬがこの世のさだめ ぢや」

「・・・なれど驚くな、怖れず逃げずそれに突当つて、自分の力でその始末をつけてゆかねばならぬ。さうしたならばお主の真の幸福はその向ふに待つて やうぞ」

それでも洞窟から来た子どもは、洞窟に戻らないわけにはいかない、とすすり泣く・・・

“洞窟から来た児”は北川自身なんだろう。社会に出たら、安楽や美のイメージを守ってくれた“家”にはもう戻れない。美しいだけでない外界(社会、他者、自然、社会の中の自分)と向き合っていかなくてはならないのだ。この作品は、北川が実家を出て数ヶ月後に書かれた。


『洞窟から来た児』について

広津和郎『昭和初年のインテリ作家』

大正5年発行「少女の友(4月臨時増刊号)」(実業之日本社)に掲載された北川千代(21歳)の戯曲。大正13年発行の作品集『帰らぬ兄』NDL→にも収められた。現在は、『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版)で読むことができる。


北川千代について

大正12年頃の北川千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北川千代 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ほるぷ出版)
大正12年頃の北川千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北川千代 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ほるぷ出版)

裕福な家庭で育つ
明治27年(1894年 ※芥川龍之介誕生の2年後)6月14日、埼玉県の深谷市Map→の社宅で生まれる。3人の兄、2人の妹、3人の弟がいた。父は建築用レンガを作る会社の工場長をつとめ、家庭は裕福だった。家は東京の西大久保(現在の大久保、歌舞伎町)にあり、 三輪田みわだ 高等女学校(現「三輪田学園中学校・高等学校」(東京都千代田区九段北三丁目3-15 Map→))に入学したが、病身のため退学。その前後から「少女世界」「少女の友」などに投稿するようになった。その文才と美貌によって少女文壇において憧憬の対象となり、17歳ですでに原稿料を得ていた。

江口 渙との結婚と離別
家を出たい一心からか、大正4年(21歳)、家族の反対を押し切って、何も持たずに江口 きよし の元に飛び込む。しかし、江口の家は格式張っており、以後肩身の狭い思いをする。翌年には江口から性病を移され、2人の仲は最初の頃からギクシャクしていた。

大正6年(22歳)、立ち続けに両親を病で失う。長兄は北川の結婚に反対であり、次兄は満州にわたり満鉄に就職、三兄も病臥中とあって、5人の弟妹の面倒を北川がみるようになる。

大正7年、「赤い鳥」に『世界同盟』を執筆、大正10年には日本で最初の女性の社会主義団体「赤瀾会(せきらんかい)」に所属した。

すでに文壇でキャリアを積んでいた優越感からか江口は、北川に対して高圧的だった。大正11年、北川(28歳)から離縁状をつきつけて離婚。江口とは足掛け7年間夫婦関係にあった。

高野松太郎と歩む
離婚後、足尾銅山の労働争議のリーダー高野松太郎三河島みかわしま(※「三河島駅」(東京都荒川区西日暮里一丁目 Map→)で同棲する。高野は争議の先頭に立って戦った結果、罪に問われ入獄もし、鉱山も追われ、北川江口の家(神奈川県鵠沼くげぬま Map→)に転がり込んでいた。江口は大正9年の「日本社会主義同盟」の結成に参加した数少ない作家の一人で、労働運動に理解があった。

高野との同棲後、高野は労働運動で各地を回ったり、当局からの弾圧を避けて潜伏したり、建設現場で土木作業に従事したりで、江口のもとにいるときより経済的には苦しくなったようだが、北川は以後、自己肯定的に生きることができたようだ。

『新しい朝』(作品集『幻の母』NDL→に収録)の連載(大正13年。29歳)、作品集『むしば める花』を出版したり、文筆活動が軌道に乗り始める。

三河島時代から養鶏・養兎ようとを始めるが、昭和2年(北川33歳)、当地(東京都大田区内川うちかわにかかる新田橋しんでんはし Map→あたり)に高野養兎研究所を開設、本格的に養鶏・養兎を始める。

広津和郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学アルバム(1)』(新潮社) 北川と高野。養鶏・養兎施設の前か ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版)

昭和2年に作品集『赤い花』、昭和4年に作品集『小鳥の家』NDL→、昭和6年に作品集『絹糸の草履ぞうりNDL→、昭和9年に『春やいづこ』NDL→を出版。中産階級(金に困らない階層)の子女を主な対象とした少女文壇において、貧しく、容貌も優れない娘、貧しい父、社会の不平等、過酷な労働、差別、差異を超えた人と人との信頼によるつながりなどを じょ した北川文学は、特異な存在であったろう。

昭和10年(42歳)、区画整理があったため東京都世田谷区 弦巻つるまき Map→へ移転、当地(東京都大田区)には8年ほどいた。

ふだんから心臓が弱く、高血圧と胃かいようを併発して倒れることもあったが、「まだ仕事をするよ。だから、右腕に注射はしないんだよ」と最期まで仕事への意地を見せる。発行した単行本は30冊以上。

昭和40年10月14日(1965年)、71歳で死去する。高野が死んだ時、九品仏(くほんぶつ)浄真寺(じょうしんじ) (東京都世田谷区)に自らたてた墓に納まる。 )。

北川千代
・「常に最も進歩的な児童文学の建設に努力されている」(槙本楠郎)

北川千代『絹糸の草履』(ポプラ社) 江刺昭子 『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』
北川千代『絹糸の草履』(ポプラ社) 江刺昭子『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』。

参考文献

●『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版 昭和53年初版発行 昭和54年発行2刷)※「北川千代年譜」「北川千代年解説」(編:浜野卓也)口絵、P.7、P.419-420 ●「江口 渙」(平野 謙)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6版)に収録 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.35 ●「大森区詳細図」(東京地形社 昭和8年発行) ●『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』(江刺昭子 大月書店 昭和55年初版発行 昭和56年発行2刷)P.8-12、P.20-26、P.194

※当ページの最終修正年月日
2025.4.21

この頁の頭に戻る