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大正5年発行「少女の友(4月臨時増刊号)」(実業之日本社)に掲載された北川千代(21歳)の戯曲。大正13年発行の作品集『帰らぬ兄』(NDL→)にも収められた。現在は、『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版)で読むことができる。
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| 大正12年頃の北川千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北川千代 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ほるぷ出版) |
裕福な家庭で育つ
明治27年(1894年 ※芥川龍之介誕生の2年後)6月14日、埼玉県の深谷市(Map→)の社宅で生まれる。3人の兄、2人の妹、3人の弟がいた。父は建築用レンガを作る会社の工場長をつとめ、家庭は裕福だった。家は東京の西大久保(現在の大久保、歌舞伎町)にあり、
江口 渙との結婚と離別
家を出たい一心からか、大正4年(21歳)、家族の反対を押し切って、何も持たずに江口
大正6年(22歳)、立ち続けに両親を病で失う。長兄は北川の結婚に反対であり、次兄は満州にわたり満鉄に就職、三兄も病臥中とあって、5人の弟妹の面倒を北川がみるようになる。
大正7年、「赤い鳥」に『世界同盟』を執筆、大正10年には日本で最初の女性の社会主義団体「赤瀾会(せきらんかい)」に所属した。
すでに文壇でキャリアを積んでいた優越感からか江口は、北川に対して高圧的だった。大正11年、北川(28歳)から離縁状をつきつけて離婚。江口とは足掛け7年間夫婦関係にあった。
高野松太郎と歩む
離婚後、足尾銅山の労働争議のリーダー高野松太郎と
高野との同棲後、高野は労働運動で各地を回ったり、当局からの弾圧を避けて潜伏したり、建設現場で土木作業に従事したりで、江口のもとにいるときより経済的には苦しくなったようだが、北川は以後、自己肯定的に生きることができたようだ。
『新しい朝』(作品集『幻の母』(NDL→)に収録)の連載(大正13年。29歳)、作品集『
三河島時代から養鶏・
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北川と高野。養鶏・養兎施設の前か ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版) |
昭和2年に作品集『赤い花』、昭和4年に作品集『小鳥の家』(NDL→)、昭和6年に作品集『絹糸の
昭和10年(42歳)、区画整理があったため東京都世田谷区
ふだんから心臓が弱く、高血圧と胃かいようを併発して倒れることもあったが、「まだ仕事をするよ。だから、右腕に注射はしないんだよ」と最期まで仕事への意地を見せる。発行した単行本は30冊以上。
昭和40年10月14日(1965年)、71歳で死去する。高野が死んだ時、九品仏(くほんぶつ)浄真寺(じょうしんじ) (東京都世田谷区)に自らたてた墓に納まる。( )。
■ 北川千代 評
・「常に最も進歩的な児童文学の建設に努力されている」(槙本楠郎)
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| 北川千代『絹糸の草履』(ポプラ社) | 江刺昭子『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』。 |
●『北川千代・壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版 昭和53年初版発行 昭和54年発行2刷)※「北川千代年譜」「北川千代年解説」(編:浜野卓也)口絵、P.7、P.419-420 ●「江口 渙」(平野 謙)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6版)に収録 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.35 ●「大森区詳細図」(東京地形社 昭和8年発行) ●『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』(江刺昭子 大月書店 昭和55年初版発行 昭和56年発行2刷)P.8-12、P.20-26、P.194
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21