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昭和3年9月25日(1928年。
吉屋信子(32歳)がヨーロッパに向け日本を出発しました。1年ほどの大旅行です。
この大旅行の門出に際し、徳富蘇峰(65歳)が吉屋に『新古今和歌集』を贈っています。2人は、6年前(大正11)年、 当地(東京都大田区)の大森駅で偶然顔を合わせてから親しくしていました。吉屋は『新古今和歌集』を「
蘇峰が『新古今和歌集』を贈ったのは、異国にあっても日本文化を忘れないようにとの「親心」からでしょうか。蘇峰は『新古今和歌集』に日本文化の
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後鳥羽上皇 |
藤原定家 |
『新古今和歌集』は、
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇(40歳)は鎌倉幕府2代執権・北条義時に対して挙兵(「承久の乱」。朝廷と武家の日本史上初の武力衝突)、1ヶ月足らずで破れ、
しかし、初期の頃の伝本は残っておらず、残っているものも脱落箇所があったりで様々なようです。
歌の作者は読み人知らずを除いても396名を数え、『万葉集』の時代からの長期にわたる歌が収録されています。『新古今和歌集』成立時の生存作者は80名ほどですが、生存作者の歌数の比率が高くなっています。1番多く採られたのはすでに故人でしたが西行(1118-1190)で94首、2番目に多く採られた慈円(1155-1225)は92首。
岩間とぢし氷も今朝はとけそめて
苔の下水みちもとむらん(西行)
岩の隙間に張っていた氷が今朝は溶け、「道を求める」がごとく苔の下を流れてゆく──。仏道を極めようと旅に多くの日々を費やした西行は、苔の下を這ってゆく水に自分を重ねたのでしょう。このように物象に意思があるかのような表現は、『新古今和歌集』の頃からでしょうか?
花ならでただ柴の戸をさして思ふ
心のおくもみ吉野の山(慈円)
艶やかな花ではなく粗末な
冒頭に「花」という目前にないイメージを出しているのもユニークでしょうか。眼前にある、または心を占めているのは「芝の戸」なんでしょうから。
下の藤原定家の一首などは、眼前にないイメージに
見渡せば花も
浦の
色鮮やかな「花」「紅葉」のイメージと対照的な「秋の夕暮れ」のわびしさが迫ってきます。「秋の夕暮れ」と名詞で止める手法(「体言止め」)も、歯切れがよく、絵画的。
定家が京都の小倉山(京都市右京区嵯峨亀山町 Map→)の山荘で選歌したとされる『(小倉)百人一首』は、『新古今和歌集』の最初の1冊が成立した30年後の文歴2年(1235年)に成立したとされます。定家はその97番に自分の歌を入れました。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや
来ない人を待っている「松帆の浦」(兵庫県淡路島北端の浜辺 Map→。「松」が「待つ」にかかっている)は、今や
「新古今和歌集」は、北原白秋らの「明星」系の歌人や象徴主義の詩人、「四季」系の詩人にも大きな影響を与えましたが、写実を尊重する正岡子規あたりからはかなり否定的評価を下されたようです。“技巧の飾りありき”で「実感・今・自分」がおざなりになれば、批判もされるのでしょう。
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| 『新古今和歌集〈上〉 (角川ソフィア文庫) 』 | 丸谷才一『後鳥羽院 (ちくま学芸文庫) 』 |
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| 田渕句美子『新古今集 〜後鳥羽院と定家の時代〜 (角川選書)』 | 織田正吉 『百人一首の謎 (講談社現代新書) 』 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 吉屋信子の『花物語』を読む→
・ 北原白秋の『桐の花』を読む→
■ 参考文献:
●『吉屋信子 〜隠れフェミニスト〜』(駒尺喜美 リブロポート 平成8年発行)P.270 ●『私の見た人(朝日文庫)』(吉屋信子 昭和54年発行)P.20-25 ●『ゆめはるか吉屋信子(上)』(田辺聖子 朝日新聞社 平成11年発行)P.542-554 ●「古今和歌集」(松田武夫)、「新古今和歌集」(谷山 茂)、「勅撰集」(後藤
※当ページの最終修正年月日
2024.9.25