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眼前にないイメージを(昭和3年9月25日、吉屋信子、ヨーロッパに向けて出発する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川端龍子の「炎庭想雪図」(昭和10年作。龍子50歳)。真夏の庭に「見えるはずもない雪」を描きこんだ。右上に伸び上がっているのが竹似草(タケニグサ)、下部でしなっているのは山百合(ヤマユリ)。●全体像→左双→右双→  ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『川端龍子(現代日本の美術13)』(集英社) 原典:「大田区立龍子記念館」(東京都大田区中央四丁目2-1 map→ site→)所蔵作品

吉屋信子 徳富蘇峰

昭和3年9月25日(1928年。 吉屋信子(32歳)がヨーロッパに向け日本を出発しました。1年ほどの大旅行です。円本えんぽんの印税2万円(現在の3,500万円ほどか?)をつぎ込み、行きはシベリア鉄道を使っています。

この大旅行の門出に際し、徳富蘇峰(65歳)が吉屋に『新古今和歌集』を贈っています。2人は、6年前(大正11)年、 当地(東京都大田区)の大森駅で偶然顔を合わせてから親しくしていました吉屋は『新古今和歌集』を「 守護札おまもり 」として旅行鞄に詰め、ヨーロッパへ旅立ちました(この時吉屋が書いた蘇峰あて礼状が、「山王草堂記念館」(東京都大田区山王一丁目41-21 Map→ Site→)に展示されていた Photo→)。

蘇峰が『新古今和歌集』を贈ったのは、異国にあっても日本文化を忘れないようにとの「親心」からでしょうか。蘇峰は『新古今和歌集』に日本文化のすい が集められていると考えていたのではないでしょうか。

後鳥羽上皇 藤原定家
後鳥羽上皇
藤原定家

『新古今和歌集』は、 建仁けんにん 元年(1201年。鎌倉幕府ができてから9年)、後鳥羽上皇(21歳)が出した 院宣いんぜん によってできた勅撰和歌集です(21ある勅撰和歌集のうち8番目に成立)。最初の1年5ヶ月は藤原定家など6名がそれぞれ歌を集め、その後1年ほどかけて後鳥羽上皇がそれらの歌から取捨選択、上皇自らも新たな歌を選び加えて約2千首が選抜されました。配列が検討され、序も加えられて、元久2年(1205年)最初の1冊が成立。その後加除修正されて決定本には1978首収められました。

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇(40歳)は鎌倉幕府2代執権・北条義時に対して挙兵(「承久の乱」。朝廷と武家の日本史上初の武力衝突)、1ヶ月足らずで破れ、隠岐島おきのしま(島根県 map→)に流されました。世間と隔絶された環境にあって、後鳥羽上皇は再び『新古今和歌集』の改修に勤しみ、400首ほどを削ぎ落として1,600首あまりに精選した「隠岐本」を完成させました。

しかし、初期の頃の伝本は残っておらず、残っているものも脱落箇所があったりで様々なようです。

歌の作者は読み人知らずを除いても396名を数え、『万葉集』の時代からの長期にわたる歌が収録されています。『新古今和歌集』成立時の生存作者は80名ほどですが、生存作者の歌数の比率が高くなっています。1番多く採られたのはすでに故人でしたが西行(1118-1190)で94首、2番目に多く採られた慈円(1155-1225)は92首。

岩間とぢし氷も今朝はとけそめて
苔の下水みちもとむらん(西行)

岩の隙間に張っていた氷が今朝は溶け、「道を求める」がごとく苔の下を流れてゆく──。仏道を極めようと旅に多くの日々を費やした西行は、苔の下を這ってゆく水に自分を重ねたのでしょう。このように物象に意思があるかのような表現は、『新古今和歌集』の頃からでしょうか?

花ならでただ柴の戸をさして思ふ
心のおくもみ吉野の山(慈円)

艶やかな花ではなく粗末ないおりの柴の戸を思っています。そんな私の心の奥底を察してください、吉野の山さん──。西行と同様、慈円も僧籍にありました。西行が一介の僧侶なのに対し、慈円は38歳で天台座主になったエリート中のエリート(慈円は西行を敬愛した。芸術には身分の差はない)。柴の戸を「さす」とは「指す」でもあり「挿す」(閉じる)でもあって、宗教者らしく、これから、質素な環境に身を閉じ込めようというのでしょう。「み吉野の山」は、「御吉野の山」でもあり、最初の2音は「見よ」にも掛かっているようです。このように一つの言葉で二つ以上の意味を表す掛詞かけことばも『新古今和歌集』で多用されているようです。

冒頭に「花」という目前にないイメージを出しているのもユニークでしょうか。眼前にある、または心を占めているのは「芝の戸」なんでしょうから。

下の藤原定家の一首などは、眼前にないイメージに上の句全部を費やしています。

見渡せば花も 紅葉 もみじ もなかりけり
浦の 苫屋 とまや の秋の夕暮れ(定家)

色鮮やかに打ち出された「花」「紅葉」のイメージとコントラストをなし、「秋の夕暮れ」のわびしさが迫ってきます。「秋の夕暮れ」と名詞で止める手法(「体言止め」)も、歯切れがよく、絵画的。

定家が京都の小倉山(京都市右京区嵯峨亀山町 Map→)の山荘で選歌したとされる『(小倉)百人一首』は、『新古今和歌集』の最初の1冊が成立した30年後の文歴2年(1235年)に成立したとされます。定家はその97番に自分の歌を入れました。

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩もしほ の身もこがれつつ(定家)

来ない人を待っている「松帆の浦」(兵庫県淡路島北端の浜辺 Map→。「松」が「待つ」にかかっている)は、今や 夕凪ゆうなぎ(夕方、風が止む一時ひととき)、藻塩もしお海藻かいそう と一緒に煮詰めて作るまろやかな風味の塩)を焼く火のように、あなたを思う私は身も焦がれ、苦しい、と。「松帆」と「 藻塩もしほ 」が韻を踏み、「夕凪」の静けさと、「焦がれる」情動(激しさ)とが心的コントラストになっています。この歌は、「万葉集」第6巻の 笠 金村かさ・の・かなむらの長歌(No.935。「〜淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ〜」)を本歌ほんか とする本歌取りもしています。過去の有名な歌の一部を取り入れて元歌の意味も踏まえて重層的に詠まれています。こういった技巧を凝らすのが「新古今調」なのでしょう。『新古今和歌集』には本歌取りした歌が270首ほどもあるそうです。

「新古今和歌集」は、北原白秋らの「明星」系の歌人や象徴主義の詩人、「四季」系の詩人にも大きな影響を与えましたが、写実を尊重する正岡子規あたりからはかなり否定的評価を下されたようです。“技巧の飾りありき”で「実感・今・自分」がおざなりになれば、批判もされるのでしょう。

『新古今和歌集〈上〉 (角川ソフィア文庫) 』 丸谷才一 『後鳥羽院 (ちくま学芸文庫) 』
『新古今和歌集〈上〉 (角川ソフィア文庫) 』 丸谷才一『後鳥羽院 (ちくま学芸文庫) 』
田渕句美子『新古今集 〜後鳥羽院と定家の時代〜 (角川選書)』 織田正吉 『百人一首の謎 (講談社現代新書) 』
田渕句美子『新古今集 〜後鳥羽院と定家の時代〜 (角川選書)』 織田正吉 『百人一首の謎 (講談社現代新書) 』

■ 馬込文学マラソン:
吉屋信子の『花物語』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→

■ 参考文献:
●『吉屋信子 〜隠れフェミニスト〜』(駒尺喜美 リブロポート 平成8年発行)P.270 ●『私の見た人(朝日文庫)』(吉屋信子 昭和54年発行)P.20-25 ●『ゆめはるか吉屋信子(上)』(田辺聖子 朝日新聞社 平成11年発行)P.542-554 ●「古今和歌集」(松田武夫)、「新古今和歌集」(谷山 茂)、「勅撰集」(後藤 重郎しげお )※『新潮 日本文学小事典』(昭和43年初版発行 昭和51年6刷参照)P.438-441、621-624、P.777 ●『田辺聖子の小倉百人一首(角川文庫)』(平成3年発行)P.446-449 ●「「新古今集」珍解」(三島由紀)※『決定版 三島由紀夫全集(31)』(新潮社)に収録 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.142-144 ●「西行」(水垣 久)やまとうた→ ●「慈円」(水垣 久)やまとうた→ ●「慈円 〜『新古今和歌集』を味付け(王朝の歌人たち 〜雅の世界〜92)」(小林一彦)※「東京新聞(朝刊)」平成29年8月6日掲載

※当ページの最終修正年月日
2023.9.25

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