{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

傘を貸す(昭和7年5月3日、「秋声会」ができる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和7年5月3日(1932年。 阿部知二(28歳)、井伏鱒二(34歳)、尾﨑士郎(34歳)、船橋聖一(27歳)、室生犀星(42歳)、岡田三郎(42歳)、榊山 潤(31歳)らが「秋声会」を立ち上げました。

自然主義文学の泰斗たいと徳田秋声(60歳)も、その頃はモダニズム文学の台頭や、小説のモデル・山田順子が去ったことなどからスランプでした。「秋声会」は、秋声の夫人の一周忌にできた「二日会」(夫人の命日(二日)にちなむ) を受け継いだもので、同人誌「あらくれ」(秋声の代表作の一つ『あらくれ』にちなむ)を創刊、秋声を顕彰するとともに、彼に活躍の場を与え、励ましました。その後秋声は文学的に再起し、晩年の円熟期を迎えます(昭和18年に情報局からの圧力で筆を折るまで)。

治安維持法が制定された大正14年以降、ことに満州侵略(昭和6年)以後は、良心的な物書きには“冬の時代”となります。秋声会」ができた1ヶ月後(昭和7年6月)「辻 潤後援会」もできました。その頃、辻(47歳)は、過度の飲酒で精神に異常を来し、救いが必要でした(弱者の“身を切る”政党などは「自己責任」と鼻にもかけないことでしょう)。「辻 潤後援会」は、谷崎潤一郎(45歳)、佐藤春夫(40歳)、北原白秋(47歳)、萩原朔太郎(45歳)、加藤一夫(45歳)、佐藤朝山(43歳)、 新居 格にい・いたる (44歳)、武者小路実篤(47歳)、宮嶋 資夫すけお (45歳)、室伏高信(40歳)らが世話人になっています。プロレタリア作家もいれば、白樺派、詩人、彫刻家、思想家もいます。の多方面への影響力が伺えます。彼らは銀座の伊東屋で自分たちが書いた色紙などを売り、の静養費を作りました。7年前の大正14年にも、(40歳)が喘息の発作に見舞われた時、上のメンバーのほか荒畑寒村(38歳)らが後援会を作り治療費を作りました。

このように、個人の才能を守るために「傘を貸す」ことはしばしばです。

貧乏のどん底にあった勝 海舟を、 渋田利右衛門 しぶた・りうえもん という函館の本好きの豪商が助けています。渋田は海舟に200両もの書物代を与え、さらには、自分が死んだあとに頼りにするようにと心ある2、3の人を海舟に紹介。渋田がいなかったら、後の海舟はなかったでしょう。

大杉 栄有島武郎から資金援助を受けていたのは普通に納得できますが、後藤新平、 頭山 満 とうやま・みつる 、杉山茂丸らも大杉の援助に列したのには驚き。

東京麻布の長屋で母親と二人暮らししていた高見 順は、「岡」のつく二人の人物に助けられています。一人は、母親の針仕事の得先のお屋敷「岡本家」(福沢諭吉門下の実業家・岡本貞烋ていきゅう の家)の次男・岡本 癖三酔 へきさんすい 正岡子規門下で、6歳の高見に俳句を教えています。高見が第一高等学校(現・東京大学)に進学するときは、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)校長の 川田正澂 かわだ・まさずみ が岡田顕三を紹介。高見は岡田からの個人的な育英資金で進学できました。岡田は、(株)フジクラの創業者・藤倉善八の甥で、フジクラの電線事業の技術面で活躍した人だそうです。 後年、高見は、『岡田顕三伝』の編纂に携わり、その恩に報いています。

原 三渓
原 三渓

三渓園さんけいえん 」(横浜市中区本牧三之谷58-1 map→)に名を残す 原 三渓はら・さんけい は、生糸貿易で莫大な富を築き、財界のリーダーになった人ですが、書画、漢学、歴史を嗜み(跡見学校での教職経験もあり)、 臨春閣りんしゅんかく といった歴史的建造物の保存や、芸術家支援に尽力しました。

三渓は義理の祖父・原家初代の善三郎の胸像制作を依頼した関係で岡倉天心と親交がありました。明治44年、天心(48歳)は不遇な若い芸術家たちの庇護を三渓に申し出ます。三渓は明治39年より自邸を「三渓園」として公開していましたが、そこに芸術家たち専用の部屋を用意し、さらには、質の高い美術品を数多く収集、それらの鑑賞会を開き、自らも参加して激論を交わし、芸術家たちに強烈な刺激を与えました。下村観山しもむら・かんざん(38歳)、小林古径(28歳)、速水御舟はやみ・ぎょしゅう (17歳)、佐藤朝山(23歳)らも三渓の世話になっています。

大正6年11月23日にとり行われた、三渓の長男・原 善一郎の結婚披露宴には、 阿部次郎(34歳)、和辻哲郎(28歳)、安倍能成(33歳)、芥川龍之介(25歳)らの姿もありました。 芥川は善一郎の東京府立第三中学校での同級です。和辻は、 てる 夫人が三渓の長女・西郷春子と親友で、夫婦ともども「三渓園」を頻繁に訪れていました。阿部や安倍は和辻に連れられて「三渓園」を訪れた口でしょうか。和辻は南画のいい作品が見たいという夏目漱石を「三渓園」に連れていったこともあったとか。三渓の周りは文化人が絶えませんでした。

打算があって金を出すというのならいざ知らず、社会的な意義を感じ、その人の素質と才能を見抜いて金を出すという場合は、支援する側にもそれなりの見識と素養が必要でしょう(そういった素養や見識がないとすぐに「芸術家も稼がねばならない」といった発言になる)。

芸術(文学、音楽、美術、演劇、映画などを含む)が経済的に成り立ち得ない場合、それを援助する「パトロン」が必要です。ヨーロッパの中世では、彫刻や絵画は「職人の技」として、数学、幾何学、天文学、文法といったものより劣ったものとされていましたが、1400年代になると、彫刻や絵画が創意、意匠、構想といった知的・精神的活動であることが主張されるようになります。そして彼らが「職人」でなく「芸術家」として認められるにしたがって、その個性の力量も問われるようになっていきます(「ルネサンス」。「芸術家」の誕生)。その芸術家個人をパトロンが援助しました。

原 三渓
教皇ユリウス2世

「システィーナ礼拝堂天井画」Wik→は、教皇ユリウス2世がミケランジェロに命じて描かせたものですが、彫刻家を自認するミケランジェロは再三固辞し、断り切れずに描き始めても描くことには不慣れで苦労し、出来も不本意だったとのことです。それが「ルネサンスを代表する作品」として後世に伝わり、今もなお人々に大きな感動とインスピレーションを与え続けています。作者をミケランジェロに決めてそれを他に譲らず、それを揺るぎない考えで実行させた教皇ユリウス2世の存在が大きいです。美術評論家の 高階秀爾 たかしな・しゅうじ さんは「システィーナ礼拝堂天井画」は、ミケランジェロとユリウス2世の「合作」だろうと言います。

竹田道太郎『近代日本画を育てた豪商原三渓 (有隣新書)』 高階 秀爾『芸術のパトロンたち (岩波新書)』
竹田道太郎『近代日本画を育てた豪商 原 三渓 (有隣新書)』 高階秀爾『芸術のパトロンたち (岩波新書)』
内藤正人『浮世絵とパトロン』(慶應義塾大学出版会) 草森紳一『食客風雲録』(青土社)
内藤正人『浮世絵とパトロン』(慶應義塾大学出版会) 草森紳一『食客風雲録』(青土社)

■ 馬込文学マラソン:
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
辻 潤の『絶望の書』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→
高見 順の『死の淵より』を読む→
芥川龍之介の 『魔術』を読む→

■ 参考文献:
●『歴史作家 榊山 潤』(小田 淳 叢文社 平成14年発行)P.145-146 ●『自伝的女流文壇史(中公文庫)』(吉屋信子 昭和52年初版発行 平成17年改版参照)P.182-206 ●「徳田秋声」(野口冨士男)※『新潮日本文学小辞典』(昭和43年発行)P.807-811 ●『辻 潤 〜「個」に生きる〜』(高木 護 たいまつ新社 昭和54年発行)P.171-172、P.181-182 ●『氷川清話(講談社学芸文庫)』(勝 海舟 編:江藤 淳、松浦 玲 平成12年初版発行 平成27年40刷参照)P26-30 ●松岡正剛の千夜千冊/『大杉 栄自叙伝』site→ ● 『高見 順(人と作品)』(石光 葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照)P.22-24、P.35-36 ●『原 三渓に学ぶ 公共貢献物語(マイウェイ77)』(財団法人はまぎん産業文化振興財団 協力:原 三渓市民研究会 平成23年発行)P.8-13、P.42-43、P.60-61 ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.105 ●『芸術のパトロンたち(岩波新書)』(高階秀爾 平成9年発行)P.4-8、P.42-46

■ 参考サイト:
神奈川近代文学館/web資料室/神奈川文学年表/大正元年~15年→ ●株式会社フジクラ/企業情報/先哲の室 ~フジクラの歴史/基礎確立の時代→

※当ページの最終修正年月日
2022.5.3

この頁の頭に戻る