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“子母沢寛『勝海舟』を読む - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

単行本上下2段組で全6巻。文庫本なら10巻以上になるだろうか。子母沢 寛の『勝 海舟』は長大な小説だ。今までこんな長いのは読んだことがなかった。この読書は一つの挑戦だった。

面白かった。どこが? と問われれば、どこもかしこも。そもそも、モデルの勝 海舟という人物そのものが面白いのだ。

正月に餅が買えないほどの貧乏旗本の家に生まれた勝が、根性とくそ度胸で幕府の上層部にまで上り詰めていく。要職についても自分を変えようとしない。どこぞの重鎮の屋敷での打ち合わせでも、その家の縁側から庭に向けてしゃーしゃーやってしまう・・・。

剣の道では江戸で一、二といわれた島田虎之介について21歳で免許皆伝、その後は一転、永井青崖から蘭学を学んぶ。入手困難だった蘭和辞書「ドゥーフ・ハルマ」を年間10両で借り受けて2部筆写、一部は自分用にし、もう一部を売って借金返済に当てたという。

相手の懐に飛び込む勇気もある。坂本龍馬は最初海舟を斬るためにやってくるが、海舟に惚れ込みその場で弟子入りしたそうだ。

それにしても長い。自慢じゃないがこの全6巻を読み通すのに2年間かかってしまった。この2年間は、いつも頭の隅に海舟がいた。この期間、私の口は開けば“勝 海舟”と言っていたらしい。海舟が蘭学塾を開いているころの下りでは、その柱の陰に私も坐っており、彼が咸臨丸で米国に向けて出帆したときは私もその乗り組員の一人になった(ような気がしていた)。この2年間は、彼といろいろな場所を旅していたようなもんだ。


『勝 海舟』 について

子母沢寛『勝海舟 (第1巻 黒船渡米) (新潮文庫)』
子母沢 寛勝 海舟 (第1巻 黒船渡来)(新潮文庫)』

昭和16年から昭和21年までの約5年間「日本経済新聞」などに連載された子母沢 寛最長の小説。 敗戦後、日本中のほとんどの連載小説が打ち切りになる中、 『勝 海舟』は継続された。「江戸城の明け渡しはGHQの進駐を分かりやすく説明したもの」とGHQを説得したとか(笑)。当地(東京都大田区)在住時に書き始め、神奈川県 鵠沼くげぬま に移転後に完結。

海舟の青年期から明治元年(45歳)駿府に移るまでのことが書かれている。海舟の父・小吉こきち はじめ、幕末の立役者、新撰組、坂本龍馬西郷隆盛、榎本武揚、福沢諭吉佐久間象山、清水の次郎長、松本良順などがぞくぞくと登場する。子母沢は特に海舟の父・小吉への思い入れが大きかった。菩提寺から小吉の霊位を預かり家の仏壇に祀ったほどに。小吉に祖父の面影を見ていたようだ。

昭和52年のNHK大河ドラマ「勝 海舟」の原作になった。


下母沢 寛について

子母沢 寛 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』 (東京都大田区立郷土博物館)
子母沢 寛 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』 (東京都大田区立郷土博物館)

彰義隊士だった祖父に育てられる
明治25年2月1日、北海道石狩郡厚田村Map→で生まれる。 本名は梅谷松太郎。

父母との縁が薄く、祖父・梅谷十次郎に育てられた。十次郎は彰義隊士であり、上野戦争でやぶれて仙台まで落ち延びそこで榎本艦隊に拾われた。函館戦争でも旧幕府軍として闘い、破れて厚田村に落ち、漁場の網元の用心棒になったり、貸席業を営んだりしていた。背中に竜の彫り物があるという伝法でんぽうな人だった。子母沢はその祖父の懐に抱かれ、幕末・明治初期の話を聞いて育つ。祖父から受け継いだ、破れた者たちへの鎮魂、また、「 股旅またたびもの」(博徒や芸人など諸国を股にかけて旅する人が主人公)、「白浪しらなみもの」(盗賊が主人公)にみられる自由の謳歌が、子母沢作品の底流に流れている。

札幌の北海ほっかい 中学(現「北海高等学校」Map→)には実母の元から通った。画家の三岸好太郎は11歳年下の異父弟であり、その時同居。生涯親交した。中学校の教師の宮田雨亭は、元「萬朝報」の記者で吉原通いで身を持ち崩した人だったが、子母沢の上京のおりに内海月杖への紹介状を書いてくれた。

新聞コラムで頭角を現す
内海月杖の援助を受け、明治大学法学部で学ぶ。学費を稼ぐためにこの頃から「赤本」(講談本の焼き直し)をさかんに書く。

卒業後、北海道の新聞社や木材店で働く。 結婚し、大正7年(26歳)再上京。2人引きの人力車に乗っている新聞記者に憧れ、「読売新聞」の記者になる。女優や蛇取り名人に取材して書いた連載記事が評判になり、「東京日日新聞」の社会部からスカウトされた(34歳)。昭和3年(36歳)、第一作 『新撰組始末記』を出版。続いて昭和5年には『遊きょう奇談』を出した。新聞記者ならではの聞き取りを元に書かれたためリアリティーがあった。子母沢が描くやくざ者は“悪事はしても非道はしない”。長谷川 伸とともに“股旅もの”のパイオニアとなる。 昭和7年、初の新聞連載『国定忠治』を手がける。連載を終えた昭和8年(40歳)、新聞記者を辞めて文筆業に専念するようになった。

破れた側の視点から書く
昭和9年(42歳)頃から“維新もの”に復帰。昭和16年から 『勝海舟』を書き継ぐ。他にも、維新後も徳川慶喜に礼節をつくした高橋泥舟について書いた『逃げ水』、衝撃隊を組織して新政府軍を震え上がらせた仙台藩士細谷十太夫について書いた『からす組』、明治27年に死ぬまでマゲを落とさなかった榊原鍵吉について書いた『遺臣伝』、剣の名手から指物師に転職した桜井金乃助について書いた『昼の月』などがある。成功者ではなく、被害者、挫折者、疎外された者の視点で書かれたものが多い。

その他にも、座頭市の原作『ふところ手帖』や、飼猿について書いた傑作エッセイ『愛猿記』『悪猿行状』などがある。

関係資料を送るなどして、後進の司馬遼太郎や池波正太郎らを助けた。

添い遂げたタマ夫人の死去後1年半した昭和43年7月19日、心筋梗塞で鵠沼の自宅で逝く( )。満76歳だった。鎌倉霊園に葬られる。

子母沢寛『蝦夷物語』 子母沢 寛『新選組始末記 (中公文庫)』
子母沢 寛『蝦夷物語』 子母沢 寛『新選組始末記 (中公文庫)』

下母沢寛と馬込文学圏

大正12年(31歳)、東京北千住の中組から馬込文学圏(新井宿西沼)に移り住む。しばらくして、同じ新井宿の子母沢(「メゾンフラット」(東京都大田区中央四丁目16-18 Map→)あたり。案内板は「大森第三中学校」正門の左脇に立つ Map→)へ移転。「子母沢 寛」のペンネームはここから取った。

二畳ばかりの玄関で執筆する極貧生活だった。子煩悩だったが子どもを相手にしていたら仕事にならないので、仕事場の入口に鬼の面を掲げ三男二女が仕事場に寄り付かないようにした。書き始めたら早く、1時間半かかるところを15分で仕上げたという。子どもの入院費捻出のために書いた初めて小説 『紋三郎の秀』が長谷川一夫主演の映画になってヒット、多額の稿料が転がり込んだ。初めて出版した本『新撰組始末記』も子母沢に住んだ頃の作品。

昭和11年(44歳)、新聞社退職後、やはり馬込文学圏の山王(東京都大田区山王一丁目16-17のほぼ全域 Map→)に移転。17部屋ある大邸宅で、弓道場もあった。9年間住み、昭和20年(53歳)、空襲を避けて神奈川県藤沢市鵠沼の別荘に移転した。

西沼、子母沢、山王とおよそ22年間、馬込文学圏に在住。

作家別馬込文学圏地図「子母沢 寛」→


参考文献

●『子母澤 寛 ~人と文学~』(尾崎秀樹ほつき 中央公論社 昭和52年発行)P.7、P.22-24、P.46-47、P.65、P.80-84、P.127-128、P.135、P.189 ●『勝 海舟(第六巻)』(子母沢 寛 新潮社 昭和40年発行)P.317-318 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.43 ●『馬込文士村<24><25>』(谷口英久 「産經新聞」(平成3年3月20日、29日)掲載 ●「子母沢 寛あて 礼状見つかる」※「朝日新聞(朝刊)」(平成25年8月22日)に掲載 ●「子母沢 寛さんと合気道の名手」(椋 康雄)椋箚記→


※当ページの最終修正年月日
2024.8.10

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