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海辺より(昭和22年8月14日、池田大作氏、戸田城聖に初めて会う)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

池田大作
池田大作

昭和22年8月14日(1947年。 池田大作氏(19歳)が、小学校の頃の友人からの誘いで、当地(東京都大田区蒲田)の友人宅で催された座談会に出席、そこで戸田城聖じょうせい と出会います。戦後直後で、どうやって生きていこうかと迷っていた池田氏は、戸田の屈託がなくかつ誠実な言葉と態度に接し、「この人なら信じられる」と直感、勧めに従って創価学会員になり、10日後(8月24日)には日蓮 正宗しょうしゅう 寺院で授戒も受けます。仏教を理解して入会・入信したのではなく、ただただ、戸田についていきたいとの一念だったようです。

池田氏は、昭和3年1月2日(三島由紀夫の3歳年下)、現在、スーパー「イトーヨーカドー」(東京都大田区大森北二丁目13-1 map→)が建っているあたりで、江戸時代から海苔生産に携わってきた家で生まれました。父親は“強情さま”と呼ばれるほどの一徹者で、母親はいつも優しく微笑んでいるような人でした。子どもは9人。兄が4人いて、池田氏は5番目で、弟も2人いました。姉と妹も1人ずついたようです。

池田家は屈指の海苔生産者でしたが、関東大震災で被災したり、父親が病気をしたりで傾き始め、池田氏が生まれた頃は“貧乏の横綱”になりつつありました。ちょうど池田氏が生まれた昭和3年には、東京湾の埋め立て(海苔生産の壊滅を意味した)に関する打診が東京府知事からあり、埋め立て推進派からの圧力も強まったことでしょう。

2歳のとき、やはり当地の糀谷こうじや 三丁目に移転(のちに屋敷を手放して糀谷二丁目に移転)、 「羽田第二尋常小学校」(現・「糀谷小学校」(東京都大田区西糀谷三丁目13-21 map→)に通います。尋常小学校卒業後、中学校へは行けず、高等小学校に進学。尋常小学校6年から高等小学校2年までの3年間は新聞配達をして家計を助けました。病弱だったので体力的には厳しかったようですが(若い頃はずっと血を吐いたりと病に苦しむ)、「感傷に負けない」との気概で乗り越え、読書も重ねていきました。

高等小学校の2年を終えた後、3番目の兄が勤めていた「新潟鉄工所」(現在、URの「蒲田本町一丁目団地」(東京都大田区蒲田本町一丁目1 map→)が建つあたりにあった。記念碑(photo)→)に就職。軍需工場だったので、敗戦とともにそこが閉鎖すると、他の工場、東京新橋の印刷会社、蒲田の「蒲田工業会」の事務員をへて、戸田の経営する出版社「日本正学館」、金融業「東京建設信用組合」で働くようになりました。ともに数年で経営不振に陥いりますが、池田氏は戸田に従うことを止めませんでした。

学業も、「東洋商業学校」(現・「東洋高等学校」(東京都千代田区神田三崎町一丁目4-16 map→))の夜間部に通い、苦学しています。

これが、入会から13年した昭和35年(池田氏32歳)第3代「創価学会」会長に就任する池田氏の来歴です。

池田氏の4人の兄は皆出征し(長兄はビルマで戦死)、「新潟鉄工所」内にあった青年学校での軍国教育では指導教官や先輩からの往復ビンタは当たり前で(戦争では(でも)バカは威張る)、大田区馬込の疎開先(おばの家)は、空襲(昭和20年5月24日)で全焼、家財のほぼ100%を失っています。そういった実体験から池田氏の基本理念の一つ反戦平和の理念が紡がれました。

「新潟鉄工所」に勤めていた頃の池田氏 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『履歴書』(池田大作 日本経済新聞社) 誕生の地近くに建つ「大森池田記念館」(東京都大田区大森北六丁目22-1 map→)内の「故郷城」の石碑
「新潟鉄工所」に勤めていた頃の池田氏 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『履歴書』(池田大作 日本経済新聞社) 誕生の地近くに建つ「大森池田記念館」(東京都大田区大森北六丁目22-1 map→)内の「故郷城」の石碑

池田氏が入会した「創価学会」は、どういった団体なのでしょう?

牧口常三郎
牧口常三郎

初代会長は、牧口常三郎まきぐち・つねさぶろう です。

牧口は明治4年新潟県柏崎市で生まれ(夏目漱石の4つ年下)、尋常小学校卒業後、単身北海道に渡って小樽警察の給仕をしながら学び、北海道尋常師範学校(現・「北海道大学」)に入学。その後、教職に身を置きつつ、明治36年(牧口32歳)志賀重昂しげたか の指導のもと地理学の本を著します(『人生地理学』国立国会図書館デジタルコレクション→。この一書をきっかけに新渡戸稲造や柳田國男との交流も始まりました。明治38年(34歳)上京して小学校の校長を歴任。大正5年(45歳)より田中智学(国柱会の創設者)の元に通い、昭和3年(57歳)には、日蓮 正宗しょうしゅう に入信。2年後の昭和5年(59歳)、『創価教育学体系』を著し、「人生の目的は値(美・利・善)の造にある」と主張。本の奥付に「創価教育学会」の名称を使用し、その出版日の11月18日が「創価学会」の創立日とされます。「創価学会」は、日蓮正宗の「 こう 」(信仰を同じくする人の集まり)の一つとして出発しました。

戸田城聖
戸田城聖

2代目の会長は戸田城聖とだ・じょうせい で、牧口の29歳年下の明治33年生まれ(ジャスト1900年生まれ)。生まれは石川県加賀市で、2歳のときに一家で北海道 厚田村あつたむら map→に移住し、やはり教職につきます。大正9年(20歳)上京し、牧口を訪ね感化されて、昭和3年(28歳)、牧口(57歳)とともに日蓮正宗に入信します。戦時下では、軍部から強制された伊勢神宮の 神札しんさつ の受け取りを拒否(「神札問題」)、そのことなどを理由に、牧口らとともに治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕されました(2人とも転向せず、牧口は獄死)。戸田は敗戦1ヶ月ちょっと前の昭和20年7月3日に釈放され(日本は思想犯をどうこうする余裕すらなくなったのだろう)、壊滅状態だった「創価教育学会」を「創価学会」として再建しました。戸田は聖者然とした人ではなく、酒もやればタバコもやり、気さくに冗談などもよく飛ばす人だったようですが(映画「人間革命」で 丹波哲郎たんば・てつろう が好演。「日本映画専門チャンネル」Site→で時々放送されるので要チェック!)、情熱的に、仏教の「 十界じっかい 」を独自の生命論で解いて(一人の人間は人生相のあらゆる状態を内包し、最高段階の「仏界」は「生命」そのもの)、会員を増やしていきました。出版業や金融業などで「創価学会」の財政面も支えました。

池田氏も当地の海苔生産業者の家に生まれ海とともに幼少期・少年期を過ごし、戸田も加賀、厚田と海辺で過ごし、そういえば牧口も柏崎と小樽で海に近く、更に言えば、宗祖の日蓮も千葉県鴨川map→の漁村生まれです。海は畏怖の対象でもあります。山や砂漠などの荒野、宇宙などもそうですが、大いなる自然に向き合う時、一個人などはちっぽけな存在。「創価学会」、日蓮宗に限りませんが、そういった感懐が宗教心の背景にあるような気がします。

池田大作『人間革命〈第1巻〉』(昭和40年発行)』。戸田城聖の同名自伝を引き継ぐ形で執筆された戸田の伝記小説。昭和52年ごろからの日蓮正宗との軋轢(「(創価学会の)昭和52年路線変更」)以後の新版では、日蓮正宗や教育勅語に関する記述に変更があるようだ。表紙絵は川端龍子 『対談 平和への選択』 (毎日新聞社)。池田氏と平和研究の第一人者ガルトゥングの対談集。「積極的平和」の提唱者・ガルトゥング氏は、「積極的平和主義」を掲げた安倍晋三首相を、真逆の概念でそれを盗用したと批判。安倍自民に追従している公明党のことも「戦争の党になりさがった」と批判した(平成27年)
池田大作『人間革命〈第1巻〉』(昭和40年発行)』。戸田城聖の同名自伝を引き継ぐ形で執筆された戸田の伝記小説。昭和52年ごろからの日蓮正宗との軋轢(「(創価学会の)昭和52年路線変更」)以後の新版では、日蓮正宗や教育勅語に関する記述に変更があるようだ。表紙絵は川端龍子 『対談 平和への選択』 (毎日新聞社)。池田氏と平和研究の第一人者ガルトゥングの対談集。「積極的平和」の提唱者・ガルトゥング氏は、「積極的平和主義」を掲げた安倍晋三首相を、真逆の概念でそれを盗用したと批判。安倍自民に追従している公明党のことも「戦争の党になりさがった」と批判した(平成27年)
池田大作『私の履歴書』 (日本経済新聞社)。当地(東京都大田区)でのこともいろいろ 柿田睦夫『創価学会の“変貌” 』(新日本出版社)。この「池田外し」の現実を、現在の学会員はどう受け止めているのだろう? 平成30年発行
池田大作『私の履歴書』 (日本経済新聞社)。当地(東京都大田区)でのこともいろいろ 柿田睦夫『創価学会の“変貌” 』(新日本出版社)。この「池田外し」の現実を、現在の学会員はどう受け止めているのだろう? 平成30年発行

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
川口松太郎の『日蓮』を読む→

■ 参考文献:
●『私の履歴書』(池田大作 日本経済新聞社 昭和50年発行)P.11、P.15、P.17、P.19-20、P.42-25、P.27、P.31-33、P.37-41、P.46、P.54-57、P.74-82、P.88-91 ●『池田大作「権力者」の構造(講談社+α文庫)』(溝口 敦  講談社 平成17年発行)P.1-23 ●『宮本顕治と池田大作』(外山四郎、飯塚繁太郎 一光社 昭和50年発行)P.160-161 ●「日記:『人間革命』における「教育勅語」記述の変化」(宇治家参去)Hatena Blog→ ●「「公明党に失望」平和学の世界的権威ガルトゥング博士が批判 〜公開書簡で池田大作氏に安保法制反対呼びかけ〜」(志葉 玲)YAHOO!ニュース→ ●「声明文」(安全保障関連法に反対する創価大学・創価女子短期大学関係者 有志の会)Link→

※当ページの最終修正年月日
2022.8.10

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