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「西洋」に対する矛盾した感情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堀辰雄

関東大震災の1ヶ月ほど前の大正12年8月4日(1923年。 堀 辰雄(19歳)が、室生犀星(34歳)に連れられて、軽井沢を初めて訪れています。

その日の感動をは、友人の神西 清じんざい・きよし (19歳)に宛てた葉書に次のように書いています。

一日ぢゆう、彷徨さまよ つてゐる。みんな活動写真のやうなものだ、道で 出遇 であ ふものは、異人さんと異国語ばつかりだ・・・

これはの「西洋」への憧れの表現とみていいでしょう。当時、軽井沢には「西洋」の具体がありました。

旧軽井沢(現在の旧軽井沢銀座あたり)は中山道の宿場しゅくば として栄えていましたが、幕末になって参勤交代が廃絶され、実入りが少なくなりました。また、明治17年には横川と新軽井沢(現在の軽井沢駅あたり)に 碓井うすい 新道が開かれ鉄道馬車が走るようになって交通の要路となり、 旧軽井沢の方は さび れかけます。

ところが幸運なことに、まもなく(明治19年)、カナダの宣教師ショーが旧軽井沢に別荘を作ったのをきっかけに、在日外国人の避暑地として発展していきます。

ショーが別荘を建てたあたりに建つ「ショー記念礼拝堂」(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢57-1 map→)。右手に写っているのがショーの像 大正時代の軽井沢。外国人が多く行き来し、横文字の看板が目立つ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『軽井沢ものがたり』(新潮社)
ショーが別荘を建てたあたりに建つ「ショー記念礼拝堂」(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢57-1 Map→)。右手に写っているのがショーの像 大正時代の軽井沢。外国人が多く行き来し、横文字の看板が目立つ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『軽井沢ものがたり』(新潮社)

軽井沢はによほど鮮烈な印象を残したのでしょう、はその後、終生、軽井沢と関係を持ち続けます。最初、「つるや旅館」(長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢678 Map→ Site→)などに滞在していましたが(「つるや旅館」の主人はショーの別荘建築に協力した)、昭和13年、加藤多恵子と結婚した後は、軽井沢に別荘を借りるようになります。 3度別荘の引越しをし、4度目で初めて別荘を購入。 昭和19年には、近くの 追分おいわけ (やはり中山道の宿場だった)に移転、そこで生涯を終えています名作『風立ちぬ』など、軽井沢や追分を舞台にした作品を数多く残しました。

明治政府は、明治13年頃から、文化、制度、技術のみならず、風俗や習慣まで「西洋」を真似ようとしました(「欧化政策」)。その象徴「 鹿鳴館 ろくめいかん 」が建設されたのが明治16年です。そこでは、連日、西洋風の夜会が開かれ、ちょっと前まで「攘夷だ! 外国人はぶった斬れ!」と叫んでいた連中までが、西洋風の社交ダンスのステップを踏んだことでしょう(かたや、攘夷を貫こうとした人たちの多くが明治になって非業の死を遂げた)。

は明治37年生まれで、欧化政策が取られるようになって20年ほどたっており、もう周りにも「西洋」が散見されたことでしょう。洋服、シルクハット、コウモリ傘、靴、レンガ造りの洋式建築、洋食などは別に珍しいものでなくなっていたことでしょう。人力車が走るようになり、馬車も走り、鉄道も開通しました。

当地(東京都大田区)にも、明治9年、「大森駅」(東京都大田区大森北一丁目6 Map→)ができ(新橋-横浜間に日本初の鉄道が開通したのが明治5年なので、その4年後)、大正元年には、西洋人の宿泊を考慮した「 望翠楼 ぼうすいろう 」が建ち、大正14年には横浜から「 独逸 ドイツ 学園」が移転して来ました。ドイツ人の往来が増え、彼らが行き来する道は「ジャーマン通り」と呼ばれ今に至ります。南川 潤の家は「独逸学園」の近くだったので、彼が書いた小説にはこういった当地の「西洋」がちょくちょく出てきます。

「西洋」をよく取り入れた状態を「ハイカラ」(high collar)と ちまた は賞賛するようになりました。

文学も例外でありません。

坪内逍遥を 嚆矢 こうし とする日本近代文学そのものが「西洋文学」の影響下にありました坪内逍遥が『小説神髄』を書いたのが明治18年で、ショーの軽井沢別荘建設の1年前。は、帝大の国文科ですが、ジャン・コクトー、アポリネール、プルーストといったフランスの作家をよく読み、翻訳したり論考しながら、自らの文学を模索しています。

しかし、こういった「欧化」には負の面がありました。

「西洋」にひれ伏すことは、すなわち、日本文化や歴史を軽視・蔑視すること廃仏毀釈は江戸末期からの神国思想や明治政府の神仏分離政策によるとされますが、各地の仏像や仏具の除去・破壊がなされた心情には、日本文化や歴史に対する軽視・蔑視も反映されたことでしょう。

その頃、浮世絵などの日本の芸術作品が海外に大量に流出しました。西欧ではジャポニズム(日本趣味)が流行し、日本の芸術作品をほしがる人がたくさんいたので、自国の文化を軽視していた日本人は「どうぞどうぞ」と安値で売ってしまったのでしょうね。

明治も中程になると、「維新」「文明開化」「富国強兵」といった言葉に浮かれ、成功者になったとのおごりも出てきて、「非文明の他のアジア諸国とは手を切って、日本は西洋の仲間入りをすべき」(脱亜入欧。脱亜論)との考えも出てきます。アジア諸国との深い関係の中で、長年にわたって文化や社会を培ってきたのに、そのアイデンティティーを捨て去ろうというのですから、アホですね。何かにひれ伏してきた者は、今度は、自ら(自国)にひれ伏せされたがるものですかね?

社会心理学者の岸田 しゅう は、幕末から太平洋戦争開戦までの日本を、「西洋」に対するアンビバレンスという視点から分析しました。アンビバレンスとは一つの対象や一つの出来事に対して二つ以上の矛盾した感情を持つこと。日本は幕末に、軍事力を背景に迫ってきた米国など「西洋」の列強に、あたかも女性が無理やり股を開かされるようにして、開国させられた。それなのに明治になると「西洋」様様。DVされているのに「あの人にもいいところがあるのよ」「結局好きなのよ」と反発心を心の底に潜ませてしまう女性のように、日本はアンビバレンスを抱え、一方の感情を抑圧し、精神を病み、しまいには発狂した(太平洋戦争を開戦した)のだと。岸田さんの説でいうと、徳富蘇峰の変節は、初期に現れた顕著な病変でしょう。

現在も、米国が威張っても日本政府はペコペコペコペコ。また同じようなプロセスをたどって“発狂”しまいかと心配になります(え? もう発症している?)。

吉村祐美『新・軽井沢文学散』(軽井沢新聞社) ケネス.B・パイル 『欧化と国粋 〜明治新世代と日本のかたち〜(講談社学術文庫) 』。監修:松本三之介、訳:五十嵐暁郎
吉村祐美『新・軽井沢文学散』(軽井沢新聞社) ケネス.B・パイル 『欧化と国粋 〜明治新世代と日本のかたち〜(講談社学術文庫) 』。監修:松本三之介、訳:五十嵐暁郎
岸田 秀 『ものぐさ精神分析 (中公文庫)』 今西 一『近代日本の差別と性文化 〜文明開化と民衆世界〜』(雄山閣出版)
岸田 秀『ものぐさ精神分析 (中公文庫)』 今西 一『近代日本の差別と性文化 〜文明開化と民衆世界〜』(雄山閣出版)

■ 馬込文学マラソン:
堀 辰雄の『聖家族』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
南川 潤の『風俗十日』を読む→

■ 参考文献:
●『評伝 堀 辰雄』(小川和佑 六興出版 昭和53年発行)P.39 ●『堀 辰雄(人と文学シリーズ)』(監修:川端康成井上 靖  学研 昭和55年発行)P.122 ●「評伝」「略年譜」(小久保 実)※『堀 辰雄(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.20-21、104-106 ●『軽井沢物語』(佐藤不二男 軽井沢書房 昭和51年発行)P.58-63 ●「堀 辰雄の軽井沢を歩く Ⅱ 【別荘編】」東京紅團→ ●「堀 辰雄の追分を歩く」東京紅團→ ●「装いの文明開化 〜官僚から庶民まで〜(知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化)」国立公文書館/アジア歴史資料センター→ ●「廃仏毀釈」※「ブリタニカ国際大百科事典」に収録コトバンク→ ●「浮世絵」(小林 忠)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「脱亜論」(松永昌三)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2023.8.4

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