|
|||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
|
「大森 民間機 空中衝突事故」の2つの墜落現場。一機は技芸屋に墜ち(写真上。写真右奥に尾﨑士郎、近松秋江らが執筆場所にした旅館「
昭和13年8月24日(1938年。 午前8時55分、「東京飛行場」(7年前の昭和6年に開港。日本初の国営民間飛行場。旧「羽田飛行場」、現「東京国際空港」(通称「羽田空港」)。東京都大田区羽田空港 Map→)を飛び立った「日本飛行学校」の練習機と「日本航空輸送」の輸送機が大森上空で接触、両機とも当地(東京都大田区)の市街地に墜ちました。「大森 民間機 空中衝突事故」です。 練習機が旋回して着陸に入ろうとしたところ、輸送機が離陸、上空200mあたりでほぼ直角に衝突しました。 練習機の方は、現在の「森ヶ崎水再生センター」(東京都大田区大森南五丁目2-25 Map→)近くにあった置屋に墜ちました。森ヶ崎は明治27年に鉱泉が発見されてから花町として発展していました。芸妓が2名、下敷きになって死亡。搭乗員2名も即死しました。 輸送機の方は(こちらも操縦訓練中だった)、現在の「大森第四小学校」(東京都大田区大森南三丁目18-26 Map→)近くにあったネジ工場に墜ちました。こちらは工場の密集地帯。近くの工場や住宅から100名以上が救助に駆けつけますが、暑い盛りだったためもあってか機体のタンクのガソリンに引火して爆発、付近一帯が火の海となって、45名が命を落としました。負傷者も106名。搭乗員3名も即死しました。 この事故で最終的に計85名が死亡。同空港の開設後初の事故であり、この時点での、日本で一番死者が出た航空事故で、飛行機の空中衝突では世界一犠牲者を出した事故となりました。 当時は航空交通管制システムがなく、各機操縦者の自己判断が頼りでした。操縦者の目視・判断にミスがあったと考えられています。
第一次世界大戦(大正3-7年)以後、航空兵力が注目されるようになりました。大正6年、玉井清太郎が空中から撒いたビラにも「若き人は征空の士たれ!!!」の文字が並んでいました。 当地に「東京飛行場」が開場した24日後(昭和6年9月18日)に満州事変を起こしたことや、定期旅客輸送が東京-中国大連間だったことなども、航空事業と戦争とのつながりを象徴しています。「日本航空輸送」の発起人には、渋沢栄一、井上準之助、原 富太郎(原 三渓)、団 琢磨、浅野総一郎といった錚々たる財界人が名を連ね、それを国が後押し、官民あげての国策事業でした。 そんな中での「大森 民間機 空中衝突事故」です。それが十分に報道されなかったのは、航空事業のマイナスイメージにならないよう、いろいろな所から様々な力が働いたからなのでしょう。大事故であるのに、ほとんど資料が残っていません。 「日本飛行学校」「日本航空輸送」と国が、犠牲者側に支払った総額は11万円で、弔慰金は死者が世帯主の場合は800円で、以下妻帯者、独身者と減額され、負傷者の場合は1ヶ月以上の入院者には200円で、1ヶ月以内だと100円。小学校教員の初任給が月50円ほどだったとかで、世帯主を失った家族を1年半支える金額にも満たなかったようです。加害者側は航空事業が国策である(戦争に必要である)ことを強調。“お国のため”を突きつけられたら、一般人は泣き寝入りするしかない時代ですね(嫌ですね〜)。 会社側との折衝に当たった小沼虎之助は、戦後、大田区が発足すると、その初代区長に就任しました。 現場に近い「森ヶ崎観音法浄院」(東京都大田区大森南五丁目1-18 Map→)に慰霊のための地蔵がたちました。火に囲まれて亡くなった人も多かったからなのでしょう、左手には清らかな水がたたえてあります。事故があった8月24日には法要が営まれるとのこと。
昭和60年(1985年)の「日本航空123便墜落事故」も、同空港から飛び立った飛行機の事故でした。8月12日夕方6時12分、大阪の伊丹空港に向けて飛び立った123便が、44分後(6時56分)に、群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に墜落。乗客乗員524名のうち520名が死亡し(4名生存)、単独機の航空事故で世界で一番死者を出した事故となりました。運輸省の航空事故調査委員会の「報告書」(昭和62年)は、かつて尻もち事故で後部圧力隔壁が破損、その後米ボーイング社が行った修理が不十分で、その後繰り返された運行でその部分が破損したと結論しました。それに対して「自衛隊の標的機が衝突した」等の反論が根強くあり、平成23年、運輸安全委員会は「(「報告書」についての)解説」を発表。しかし、「報告書」以後に分かったことが検討されておらず、納得できる内容になっていないようです。なお、デジタルフライトデータレコーダーの解析から標的機の衝突はあり得ないとする反論に対する反論もあります。 「日本航空123便墜落事故」の14年前(昭和46年)、「 「雫石空中衝突事件」は裁判となり、高裁で、訓練機に随伴飛行した教官に、業務上過失致死、航空法違反で、禁錮3年(執行猶予3年)の判決がおりました。裁判では、「報告書」の他にも数々の証言が取り上げられ検討されました。「日本航空123便墜落事故」の疑念がいまだに晴れないのは、「解説」においてさえも、「報告書」と符合しない証言をほとんど取り上げないからのようです。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |