{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

質実の美(天正19年2月28日、千利休、豊臣秀吉によって切腹に追い込まれ死去)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長谷川等伯の「松林図」の部分を使って再構成しました ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「松林図屛風」(長谷川等伯)(東京国立博物館→


千利休
千 利休

天正19年2月28日(1591年。 千 利休(69歳)が切腹により死去しました。豊臣秀吉(54歳)より切腹の申し渡しがあったからで、秀吉の生母の大政所や秀吉の正室の北政所などが命乞いするから秀吉に謝罪するように勧めましたが、利休は固辞し、死に赴きました。

秀吉が切腹を申し渡した理由は2つあり、大徳寺の山門の上に利休の木造が安置されたことと(利休が雪駄をはき、杖をついて雪見している姿の木造が置かれた。その下を勅使や秀吉も通ることになり、不敬罪・僭上罪に当たるとされた)、茶道具の価値判断とその売買上で不正があったとされたためのようです(「竹の花入」「 板風炉いたぶろ 」など利休が新作した茶道具が高値で売られ交換されているのを不正とみなされた)。

その他、秀吉が利休の娘を側室に所望したのを断ったからとか、利休が秀吉を毒殺しようとしていたからとか(岡倉天心の『茶の本』にあるが史実と異なる)、利休がキリシタンに理解があったからとか、秀吉の朝鮮出兵に意見したからとか、茶の湯の考え方で対立したからとかいろいろ言われています。それらの真偽と重要度は現在も議論されているようです。ともあれ、利休が茶の湯を通し、有力な大名や商人の精神的支柱として多大な影響力を発揮し始めていることを、秀吉は危惧し、恐れ、利休を敬愛しながらも憎んだということではあるのでしょう。

利休は大阪・堺の「魚屋ととや 」(塩魚を扱っていたようだ)という商家に生まれ、幼い頃から茶の湯に親しんだようで16歳頃にはひとかどの茶人として認められています。50歳になろうという頃、織田信長の前でも茶を点てるようになり、その流れで、天正10年(62歳)、秀吉の 茶頭 さどう 茶の師匠)になりました。60歳頃までは先人の茶の湯を踏襲し、60代になって独自の茶の湯を展開、その後の10年間で「わび茶」(豪華な茶の湯に対する。「わび・さび」(簡素・簡略・静寂・貧困・孤絶・無常といった巷で「 わびしい」「さび しい」とされる状況・状態の中に奥深く豊かなものを見出そうとする美意識)を茶の湯の根本とした)を完成させました。見栄や装飾や既成の価値観を捨て去って、物事の本質を見ようとしたのです。

長谷川等伯
長谷川等伯

利休の没後4年(文禄4年・1595年)、長谷川等伯(55歳)が利休像Photo→を描いています(肖像上部の文は利休とも等伯とも親しかった大徳寺の住持・ 春屋宗園 しゅんおく・そうえん )による )。

利休が生まれたのは大永だいえい2年(1522年)ですが、等伯はその17年後の天文てんぶん 8年(1539年)、石川県の七尾で生まれました。城主・畠山氏の家臣・奥村文之丞の子でしたが、染物屋・長谷川宗清の養子になり長谷川姓となります。養家が熱心な日蓮宗信者だったことから仏画を手がけるようになったというのが通説のようです。天正7年(1579年等伯40歳)頃、京都に移住、 衣棚通ころものたなどおMap→に「絵屋」(有力町衆を顧客に色紙・短冊・扇絵・屏風絵などを制作・販売した)を構えたことから、すでに京都の有力者になっていたと推測されています。

一商人から文化・政治の世界にまで大きな影響力を持つまでになった利休と、武家から絵画の世界に輝きでた等伯とは、いつどこで出会ったのでしょう。?

その謎を解くキーワードが、「大徳寺」(京都府京都市北区紫野大徳寺町53 Map→)です。古渓宗陳が利休にその山門の重層化を勧め、2層目の金毛閣を利休が寄進、そこに利休像が置かれたために利休が処罰されることとなるいわくある場所ですが、その山門の内部の天井に龍、天女、 共命鳥ぐみょうちょう迦陵頻伽かりょうびんが (共命鳥も迦陵頻伽も浄土の六鳥の一つ)を、また柱に仁王像などを描いたのが等伯だったのです。この山門の工事は天正17年(1589年)の初め頃から始まり年末に終わるので、その年までに、利休(67歳)と等伯(50歳)が出会っていたと考えられます。

等伯が描いた利休像が残るのみで、2人の交流がどの程度でどういったものか詳らかになっていないようですが、確かに2人は出会い(肖像を残しているので、実際に顔を合わせたと考えられる)、そして、直後に、一方は死に追いやられ、一方は画業が認められて中央画界に躍進、名門の狩野派を脅かす存在になっていきます。

利休が独自の「わび茶」を確立していくのが60歳頃からでしたが、等伯も、まだ、絵仏師としての力量、絵屋としての力量を認められたに過ぎず、「松林図」に代表される頭抜けた才能を発揮したわけではありません。「松林図」こそが、等伯の代表作に止まらず、利休も「わび茶」で追求した世界的にも稀な美意識の美術における達成であり、日本の代表的美術品といえるでしょう。

長谷川等伯「松林図」。● 左隻 ( させき ) → ● 右隻 ( うせき ) → ●部分1→ ●部分2→ ●部分3→ ●部分4→ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「松林図屛風」(長谷川等伯)(東京国立博物館→)
長谷川等伯「松林図」。● 左隻 させき  ● 右隻 うせき  ●部分1→ ●部分2→ ●部分3→ ●部分4→ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「松林図屛風」(長谷川等伯)(東京国立博物館→

「松林図」はいつ頃描かれたのでしょう?

等伯は、大徳寺山門の仕事をした後、天正20年(1592年等伯53歳)に代表作の1つ「智積院ちしゃくいん 障壁画」(「楓図」Photo→が有名) を描き終えた頃から水墨画に傾倒し始めました。その後「松林図」が描かれたのでしょうが制作年までは特定できていないようです。もう1つの代表作「 隣華院りんかいん 障壁画Photo→ ※部分)」(慶長4年1599年。等伯60歳)で水墨画の技法がある完成を見たことから、その頃、描かれたと推測されています。「智積院障壁画」を描いた翌年(文禄2年1593年等伯54歳)等伯は長男の 久蔵きゅうぞう (久蔵も「智積院障壁画」の一部を描いた)を喪い、その悲しみの中で、荒ぶる悲心を筆に託し、そして途中で筆を止めたという説もあるようです。

「松林図」は下絵または未完成作ともされます。取り敢えずの完成を目指さなかったこと(計算されなかったこと)が、この作品に、この時代の他の美術作品にない出色を添えたと考えられます。等伯は、ある意味偶然に、「質実の美」に到達したのかもしれません。

桑田忠親『千 利休』(宮帯出版社)。利休関係文書を批判的に検証し、利休の実像に迫る。監修:小和田哲男 井上 靖『本覚坊遺文 (講談社文芸文庫)』。弟子の本覚坊の言葉から、利休の最後の心境を探る。「『蒼き狼』論争」後、井上の歴史小説はどう変化したか? 日本文学大賞受賞作
桑田忠親『千 利休』(宮帯出版社)。利休関係文書を批判的に検証し、利休の実像に迫る。監修:小和田哲男 井上 靖『本覚坊遺文 (講談社文芸文庫)』。弟子の本覚坊の言葉から、利休の最後の心境を探る。「『蒼き狼』論争」後、井上の歴史小説はどう変化したか? 日本文学大賞受賞作
宮島新一『長谷川等伯 〜真にそれぞれの様を写すべし〜 (ミネルヴァ日本評伝選)』 安部龍太郎『等伯 <上> (文春文庫)』。直木賞(平成25年度)受賞作。著者の安部氏は、当地(東京都大田区)の図書館職員でした
宮島新一『長谷川等伯 〜真にそれぞれの様を写すべし〜 (ミネルヴァ日本評伝選)』 安部龍太郎『等伯 <上> (文春文庫)』。直木賞(平成25年度)受賞作。著者の安部氏は、当地(東京都大田区)の図書館職員でした

■ 馬込文学マラソン:
井上 靖の『氷壁』を読む→

■ 参考文献:
●『千 利休』(桑田忠親、小和田哲男(監修) 宮帯出版社 平成23年発行)P.92-122 ●『長谷川等伯(日本美術絵画全集第十巻)』(昭和54年発行 集英社 評伝・作品解説・年譜:中島純司)P.100、P.135-137、P.144 ●『長谷川等伯(ミネルヴァ日本評伝選)』(宮島新一 平成15年初版発行 平成22年発行2刷参照)P.97-109、P.205-228

当ページの最終修正年月日
2024.2.28

この頁の頭に戻る