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長谷川等伯の「松林図」の部分を使って再構成しました ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「松林図屛風」(長谷川等伯)(東京国立博物館→)
天正19年2月28日(1591年。 千 利休(69歳)が切腹により死去しました。豊臣秀吉(54歳)より切腹の申し渡しがあったからで、秀吉の生母の大政所や秀吉の正室の北政所などが命乞いするから秀吉に謝罪するように勧めましたが、利休は固辞し、死に赴きました。 秀吉が切腹を申し渡した理由は2つあり、大徳寺の山門の上に利休の木造が安置されたことと(利休が雪駄をはき、杖をついて雪見している姿の木造が置かれた。その下を勅使や秀吉も通ることになり、不敬罪・僭上罪に当たるとされた)、茶道具の価値判断とその売買上で不正があったとされたためのようです(「竹の花入」「
その他、秀吉が利休の娘を側室に所望したのを断ったからとか、利休が秀吉を毒殺しようとしていたからとか(岡倉天心の『茶の本』にあるが史実と異なる)、利休がキリシタンに理解があったからとか、秀吉の朝鮮出兵に意見したからとか、茶の湯の考え方で対立したからとかいろいろ言われています。それらの真偽と重要度は現在も議論されているようです。ともあれ、利休が茶の湯を通し、有力な大名や商人の精神的支柱として多大な影響力を発揮し始めていることを、秀吉は危惧し、恐れ、利休を敬愛しながらも憎んだということではあるのでしょう。 利休は大阪・堺の「
利休の没後4年(文禄4年・1595年)、長谷川等伯(55歳)が利休像(Photo→)を描いています(肖像上部の文は利休とも等伯とも親しかった大徳寺の住持・
利休が生まれたのは 一商人から文化・政治の世界にまで大きな影響力を持つまでになった利休と、武家から絵画の世界に輝きでた等伯とは、いつどこで出会ったのでしょう。? その謎を解くキーワードが、「大徳寺」(京都府京都市北区紫野大徳寺町53 Map→)です。古渓宗陳が利休にその山門の重層化を勧め、2層目の金毛閣を利休が寄進、そこに利休像が置かれたために利休が処罰されることとなるいわくある場所ですが、その山門の内部の天井に龍、天女、
等伯が描いた利休像が残るのみで、2人の交流がどの程度でどういったものか詳らかになっていないようですが、確かに2人は出会い(肖像を残しているので、実際に顔を合わせたと考えられる)、そして、直後に、一方は死に追いやられ、一方は画業が認められて中央画界に躍進、名門の狩野派を脅かす存在になっていきます。 利休が独自の「わび茶」を確立していくのが60歳頃からでしたが、等伯も、まだ、絵仏師としての力量、絵屋としての力量を認められたに過ぎず、「松林図」に代表される頭抜けた才能を発揮したわけではありません。「松林図」こそが、等伯の代表作に止まらず、利休も「わび茶」で追求した世界的にも稀な美意識の美術における達成であり、日本の代表的美術品といえるでしょう。
「松林図」はいつ頃描かれたのでしょう? 等伯は、大徳寺山門の仕事をした後、天正20年(1592年等伯53歳)に代表作の1つ「 「松林図」は下絵または未完成作ともされます。取り敢えずの完成を目指さなかったこと(計算されなかったこと)が、この作品に、この時代の他の美術作品にない出色を添えたと考えられます。等伯は、ある意味偶然に、「質実の美」に到達したのかもしれません。
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