![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||||||||||||||||
![]() |
|
![]() |
|||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||||||||||||
![]() |
|
![]() |
|||||||||||||||||||||||
![]() |
|
![]() |
昭和37年4月14日(1962年。 三島由紀夫(37歳)が澁澤龍彦(33歳)に出した書簡に次の一節があります。 ・・・「神聖受胎」のユートピア説一々、首肯されることばかり。世間崩壊とユートピアの相似は、実に論理的で、サディズムとマゾヒズムと同断、と貴兄の言はれる通り。・・・ 2人はサディズムによって結ばれていました。遡ること6年(昭和31年)、澁澤が「サド選集」の序文を三島に頼んだことから2人の交流は始まったようです。澁澤は三島より3つ若い(昭和3年生まれ)、サド研究の第一人者です。東京大学文学部の卒論ですでにサドを取り上げた筋金入り。世間でのサドの評価は「低劣なポルノ作家」、またはそれ以下のもの(犯罪者・変質者とか)だったでしょうから、「サド選集」の序文を頼めるのは、冒険的に思考できる三島ぐらいだったかもしれません。案の定、三島は乗ってきました。 その後、昭和33年、三島は澁澤に本格的なサド論を書くことを勧めます、自分が読みたいからと。 ところで、サディズム(加虐性欲。対象に苦痛を与えることで性的快感を得る。SMの「S」)の語源になったサドとは、どんな人だったのでしょう?
1740年に生まれ1814年まで生きた小説家であり思想家です。位は侯爵。五爵位だと上から2番目(公爵の下で伯爵の上)で由緒ある貴族でした。高等教育を受けて国王付きの歩兵連隊の士官として七年戦争にも参加。司法官の娘と結婚しますが、その後、物乞いしていた女を監禁して拷問するといった「アルクイユ事件」、娼婦を集めて乱行に及んだ「マルセイユ事件」などを引き起こし、さらには、毒殺未遂と男色のかどで追われ、入獄。脱獄と入獄を繰り返して、結局は74年間の人生のうち1/3以上を刑務所で過ごし、精神病院で一生を終えるといった壮絶な人生でした。 サド作品の多くは監獄で書かれ、主著『美徳の不幸(ジュスティーヌあるいは美徳の不幸)』(Amazon→)は、バスチーユ監獄で書かれました。刊行が1791年で、フランス革命の嚆矢となったバスチーユ監獄の襲撃(1789年)の2年後です。バスチーユ監獄の囚人だったサドも襲撃1年後(1790年)に釈放されました。サド作品はフランス革命期の絶対権力に抗し、自由を求める機運と軌を一にしていました。 『美徳の不幸』には、 ジュリエットとジュスティーヌの姉妹が出てきます。淫乱な姉ジュリエットは栄華を極めるのに、純情なジュスティーヌは不幸のどん底に落ちていきます。当時絶対的な権力を有していた教会がキィー!となりそうな内容です。無神論の主張とも言えます。サドはエロを追求することで、既成の権力・道徳を超越したと評価され、1900年代になると、根源的自由を探求した作家・アポリネール、ブルトン、バタイユらから高く評価されました。 サド作品には性的“不道徳”行為がたくさん書かれており、性的な倒錯の貴重な資料にもなっています。ドイツの精神医学者クラフト・エビングはサド作品に典型的に出てくる加虐性愛行為をサディズムと名付けました。
マゾヒズムはサディズムと対をなすもので、苦痛を与えられることから快感を得る被虐性愛(SMの「M」)です。やはり貴族で小説家のマゾッホの行動と著作に典型的に現れることから、エビングがマゾヒズムと名付けました。 無意識を探究したフロイト(1856-1939)は、能動的性行為全般をサディズムと関連させて論述。その行動が極端な場合は性的倒錯とされても、S要素自体は、全ての人に関わることとしたのです。受動的性行為全般もM要素の発露として考えることができるでしょう。 さらに敷衍すれば、他者や外界に影響を及ぼそうという思念・感情・欲望・行動にS要素を、反対に、他者や外界の影響下にあろうとする思念・感情・欲望・行動にM要素を見出すこともできます。外界を変質させようとする意味で各種開発もS要素の発露であり、人に教えたい(影響を与えたい)という欲望もS要素のなせること。反対に、状況の S要素がいいとか悪いとか、M要素がいいとか悪いとかいうことではなく、要はそのバランスでしょう。人格がS要素に偏れば、自分本位の積極性・攻撃性のみとなって、煮詰まれば、反社会的な行動にもなるし、M要素に偏れば、卑屈になり、ひたすら受動的な退屈な人生(ユートピア)を送ることともなるでしょう。上に引用した三島の書簡の言葉「世間崩壊とユートピアの相似は、実に論理的で、サディズムとマゾヒズムと同断」も、こういった角度からなら理解できそうです。 三島と澁澤に話を戻すと、昭和34年、渋澤がサドの『悪徳の栄え』を翻訳し出版したところ、刑法175条に抵触するとして起訴され、10年後に有罪になりました。体制側権力(司法を含む)が、SとかMとかを理解するのは難しいことなのかもしれません。 三島の依頼通り澁澤は「サド論」(『サド侯爵の生涯』)を書き、三島はそれを元に、昭和40年(40歳)、「戦後演劇史上最高傑作の戯曲」(演劇批評誌「シアターアーツ」(平成6年12月号))と絶賛された「サド侯爵夫人」(Amazon→)を書きました。登場する6人の女性がそれぞれ「貞淑」「法と道徳」「肉欲」「神」「無節操」「民衆」を象徴、彼女らの対話から「人間存在の複雑さ」が浮かび上がってきます。 ちなみに、当地(東京都大田区)にも在住し、 また、SM小説の“巨匠” サドがバスティーユ牢獄で書いた『ソドム百二十日』の直筆原稿が、平成29年、フランスの国宝に指定されました。貴重な文化資料の海外流出を防ぐためだそうです。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |