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ちょいと富士山へ(天保3年3月3日、桃雲寺に富士講碑が建つ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天保てんぽう3年3月3日(1832年。 当地の桃雲寺とううんじ (マンション「ザ・グローベル大森山王」(東京都大田区山王三丁目29-8 Map→)が建つあたりにあった)に、「富士講碑」が建ちました。「 贔屓ひき 」(中国の亀に似た伝説上の動物。重いものを負うことを好む。「ひいき」の語源)が石碑を負っておりPhoto→、「 仙元せんげん大菩薩だいぼさつ 」と刻まれていますPhoto→。マンション建設にともない、「根岸地蔵」(東京都大田区山王三丁目26-8 Map→)が建つ区域に移されてしまいました。

桃雲寺の「富士講碑」上部に彫られた富士山
桃雲寺の「富士講碑」上部に彫られた富士山

富士講は、富士山信仰を共にする人たちの集まり。「 こう 」には話を聞き、理解し、共感し合う意味があり、その構成員を「 講中 こうじゅう 」)、組織を「講社」と呼びました。富士山麓の 人穴ひとあな (静岡県富士宮市ふじのみやし 人穴 Map→) で角材の上に立ち続ける苦行の末に霊力を得たという長谷川 角行 かくぎょう (1541-1646)を開祖とし、6代目の 食行身禄じきぎょう・みろく (1670-1733)が再興、弟子たちが江戸中で布教して富士講を増やし、一時は「江戸八百八講」といわれるほどでした。

商人としても成功していた食行身禄は資産を親類に分与し自らは行商しながら布教に専念。江戸を大地震と凶作が襲った年の翌年(享保18年1733年)、断食 入定にゅうじょう (入定は悟りに入ることだが、即身仏になることとも)し、それを果たしました。桃雲寺の「富士講碑」は彼の100回忌に建てられました。

毎年7月、富士山で修行を積んだ 先達せんだつ が構員を引率して富士山に登るほか、身を清めたり病気を治すために「お き上げ」をしたり、「お伝え」といってお経を読んだり、占いやお祓いをしたりと、呪術的な側面がありました。

富士登山( 登詣とけい )はお伊勢参りと同じくレジャー的側面もあったと考えられ、富士講の興隆は、江戸中期以後、人々の生活に余裕ができたことも表しているのでしょう。宗教では女性が排斥されることがままありましたが、富士講では女性信者も増えていきました。

当地(東京都大田区)には、桃雲寺の「富士講碑」の他にも、富士講など富士山信仰に関連するものがいろいろ残っています。

安養寺(東京都大田区西六郷二丁目33-10 Map→)の「富士講記念碑」には、江戸とその近くの112の講社の名と講紋が刻まれておりPhoto→、富士講の分布を知る上での貴重な資料になっています。

安養寺の「富士講記念碑」の富士山
安養寺の「富士講記念碑」の富士山

大森村の富士講が建てた「東海道常夜燈」(東京都大田区大森西五丁目2 Map→)にも、富士山が彫られています。三匹の猿が鏡(太陽?)のようなものを持っています。富士山が「庚申(かのえさる。こうしん)の年」に出現したという伝説によるとのこと。

「東海道常夜灯」の富士山と三匹の猿。かつては東海道沿いにあった
「東海道常夜灯」の富士山と三匹の猿。かつては東海道沿いにあった

「富士講灯籠とうろう」(東京都大田区南馬込二丁目25-17 Map→)というのも残っています。富士登詣のおり、ここに参集し、無事を祈願したそうです。先に紹介した3つ同様、江戸後期(1800年代前半)に建てられたもの。黒船来航(嘉永6年。1853年)前なので、まだ平和ですね。

「富士講灯籠」の富士山
「富士講灯籠」の富士山

当時は今のような交通機関があるわけでなく、ほとんどの人は地元から徒歩で富士山を目指したわけで、そうとうな日数と体力を要したでしょう。とうぜん富士登山できない人も多く、富士登山の代わりに近場で気軽に登れる「富士塚」というものもできました。 穴守あなもり 稲荷神社(東京都大田区羽田五丁目2-7 Map→)には「穴守富士」というのがあります。

穴守神社(羽田5-2-7 map→)の富士塚を登り詰めると溶岩でできた冨士山が!
穴守神社の富士塚を登り詰めると溶岩でできた冨士山が!

羽田神社(東京都大田区本羽田三丁目9-12 Map→)にも、富士塚「羽田富士」Photo→があります。

富士塚と呼ばないでも、斜面に溶岩を配する造園は、富士山をイメージしているのでしょう(例えば、「熊野神社」(東京都大田区山王三丁目43-11 Map→)の溶岩道 Photo→)。多摩川 浅間 せんげん 神社(東京都大田区田園調布一丁目55-12 Map→)には 食行身禄 じきぎょう・みろく の石碑(勝 海舟の書)があり、やはり階段に溶岩が配されていますPhoto→。浅間神社が祀る「浅間大神」は、桃雲寺の「富士講碑」の「仙元大菩薩」(“ 浅間 あさま ”は“せんげん”とも読まれ、“仙元”とも書かれるようだ)と同様、富士山を神格化したもので( 木花咲耶姫命 このはなのさくやひめのみこと が主神とも)、全国に1,300社ほどあります(長野県と群馬県の境にある「浅間山」Map→を信仰対象にしているものも。「あさま」は火山を示す古語か)。当地には他にも、大森西(東京都大田区大森西二丁目2-7 Map→)や中馬込(東京都大田区中馬込二丁目1-21 Map→)などに浅間神社があります。

富士山はどれだけ描かれてきたことでしょう。当地の本門寺に墓がある狩野尚信も「富士見西行」という雄大で神秘的な絵を残しました。葛飾北斎は「富嶽百景」で2枚、当地(東京都大田区)からの富士を描きPhoto1(大森)→ Photo2(千束)→、その20年ほど後、歌川広重(初代)が北斎の意匠性に対して写実性を重視した「富士見百図」を描きはじめ(62歳で没したため12枚しか残っていない)、大森からの富士のスケッチが残っていますPhoto→。しかし、富士山を描いた名画中の名画と言えばやはり北斎の「神奈川沖浪裏」Photo→でしょうか。

文学作品にもどれだけ描かれてきたことでしょう。新婚旅行で当地に来た徳冨蘆花は、本門寺の高台から富士を眺めやり、『富士』に書いています太宰 治にも『富嶽百景』Amazon→という短編小説があります。

当地(東京都大田区)には、富士山にちなんだ地名もいろいろ。富士見橋が2カ所(仲池上一丁目1 Map→、大森西二丁目21 Map→)、富士見坂も2カ所(田園調布南30 Map→、鵜の木一丁目15 Map→)、美富士橋(田園調布南24 Map→)、富士見台(北千束一丁目1 Map→)、富士見通りも2カ所(鵜の木二丁目10 Map→、新蒲田三丁目9 Map→)など、探せばまだあるかも。

毎年夏、登山客で賑う富士山(冬はエキスパートだけに許される世界)。作家もけっこう登っています。

有坂蓉子『ご近所富士山の「謎」 〜富士塚御利益散策ガイド〜 (講談社+α新書) 』。 歌舞伎町のど真ん中にも富士塚がある!? 赤坂治績『完全版 広重の富士』(集英社)。『富士三十六景』『不二三十六景』『富士見百図』の全図を収録
有坂蓉子『ご近所富士山の「謎」 〜富士塚御利益散策ガイド〜 (講談社+α新書) 』。 歌舞伎町のど真ん中にも富士塚がある!? 赤坂治績『完全版 広重の富士』(集英社)。『富士三十六景』『不二三十六景』『富士見百図』の全図を収録
鈴木正崇『山岳信仰 〜日本文化の根底を探る〜 (中公新書) 』 『富士山ブック 2021 〜3776m、日本一の山が呼んでいる〜 (別冊山と溪谷)』
鈴木正崇『山岳信仰 〜日本文化の根底を探る〜 (中公新書) 』 『富士山ブック 2021 〜3776m、日本一の山が呼んでいる〜 (別冊山と溪谷)』

■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.359 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド(11))』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.17-18、P.103、P.215 ●「富士講」(井之口章次 )※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「食行身禄」(岡田 博) ※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「長谷川角行」(宮崎ふみ子)※「朝日日本歴史人物事典」(平成6年発行)に収録コトバンク→ ●「生活と文化/庶民の生活/講と民間信仰/富士講」(平野榮次、坂本 要、野村義治)※『大田区史(中)』(東京都大田区 平成4年発行)P.1151-1153

※当ページの最終修正年月日
2024.3.3

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