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博物学的「愛」(明治18年2月1日、南方熊楠、当地(東京都品川区)の大森貝塚に採集に来る)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊楠はこのような観察記録を大量に残した ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「クマグスの森展 〜南方熊楠の見た夢〜」(主催・会場:ワタリウム美術館)の展覧会用パンフレット

南方熊楠

明治18年2月1日(1885年。 南方熊楠(17歳)が当地の大森貝塚(東京都品川区大井六丁目21-6 map→)にやって来て、バイ(巻貝の一種)1個と土器2片を採集しています。モースが大森貝塚を発見したのが明治10年ですから、その8年後。熊楠は3ヶ月後の5月12日にも訪れ、土器20片と骨1片を採集しました。

熊楠はその頃までに、他の遺跡にも足を伸ばしたようですし、他にも魚介類、植物、昆虫、鉱物を採集。小学生の頃から、登校時に面白いものがあるとその場で弁当を食べてしまい、空の弁当箱に、その藻やら昆虫やら蟹やらをつめ、家に持ち帰るといった感じで、2日も3日も、寝食を忘れて、野山を駆け巡ることも。

彼の採集は、「筆写」「記憶」といった形でもなされました。なんと、明治8年頃(8歳頃)から、『和漢三才図絵』( 正徳 しょうとく 2年(1712年)、大坂の医師が編纂した日本で最初の百科辞典(類書))105巻を3年がかりで筆写、同時に『本草綱目』(明(中国)の博物学の集大成)(21巻)、『諸国名所図絵』、『大和本草』(貝原益軒)、『前太平記』(4巻)、『徒然草』なども筆写。そして、それらを凄まじい勢いで記憶していったようです。

熊楠が2度目の来訪時に大森貝塚で採集した土器の一部 ※写真の出典:『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』 (東京都品川区立品川歴史館) 熊楠が10歳頃に筆写したとされる『和漢三才図会』の一部 ※「パブリックドメインの図像(根拠→)」を使用 出典:『南方熊楠(新潮日本文学アルバム)』、和歌山県/和歌山県総合情報誌「和-nagomi-」/vol.11/ 【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。→
熊楠が2度目の来訪時に大森貝塚で採集した土器の一部 ※写真の出典:『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館) 熊楠が10歳頃に筆写したとされる『和漢三才図会』の一部 ※「パブリックドメインの図像(根拠→)」を使用 出典:『南方熊楠(新潮日本文学アルバム)』、和歌山県/和歌山県総合情報誌「和-nagomi-」/vol.11/ 【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。→

熊楠が、和歌山県和歌山市で生まれたのが、慶応3年4月15日。慶応は4年までで、途中で明治になるので、明治元年(慶応4年)に満1歳です。夏目漱石と同様、明治の元号年と満年齢が一致します。

家は和歌山一の金物屋だったようですが、地元では江戸時代の名残で旧藩士とその家族たちが威張り、商家の次男坊の熊楠は彼らから「鍋屋の熊公」と呼ばれ、コケにされたようです。その屈辱が、幼い頃から熊楠を奮発させ、“知的武装”へと駆り立てていったようです。

明治16年、和歌山中学を卒業後、上京。「大学予備門(後の第一高等学校、東京大学)」に入るための予備校「共立学校」に入学(幸田露伴と同級)、翌年(明治17年。17歳)、「大学予備門」に合格します。夏目漱石、山田美妙、正岡子規、秋山 真之 さねゆき が同級でした。

「共立学校」時代も、「大学予備門」時代も熊楠は、お仕着せの学問(向こうからやってくる知識)には興味を持たず、自身の興味・関心・ワクワクする気持ちに忠実でしたから、彼の“知識”には「愛」がありました。もっぱら図書館で学び、でなければ酒を飲むか、採集。大森貝塚にやって来たのは、「大学予備門」入学の翌年(明治18年。18歳)です。

そんな“バランスを欠いた学び方”だったので、数学で落第。それをいいことに(?)、翌明治19年(19歳)には中退し、その年中に渡米。「愛」があるので行動が大胆です。皆と同じようでいることを美徳とするような国に到底収まるような人物ではありませんね。

熊楠は洋行し、英国のバークレーたちが世界最初の標本集を刊行したのに刺激され、それを超えるものを収集してみせるとの闘志を燃やしました。幕末に列強からの暴力(帝国主義)に蹂躙された日本人であり、その傷を負ってまもない頃ですから、西洋に対しての「なにクソ」も強かったことでしょう。熊楠の関心は多岐にわたりましたが、その一つの柱が菌類になったのは、バークレーたちが作った標本集が菌類のものだったからなのでしょう。

米国でも熊楠はやはり学校にはほとんど通わず、原野の“バケモノ屋敷”と呼ばれた一軒家を拠点に、3〜4日かかる雪の道も厭わずに採集に邁進、151種の菌類の標本をまとめて『ミシガン州産諸菌集』を完成させます。これが博物学者としての最初の仕事のようです。

フロリダでは、八百屋と肉店をやっている中国人の江 聖聡チャン・シエンツオンのところで働きながら、採集に邁進。研究に打ち込む熊楠に感動したチャン は、最大限に協力したようです。この地で、熊楠は、ピトフォラ・ヴォーシュリオイデス(藻の一種)は発見、科学雑誌の世界的な権威「ネイチャー」への発表も果たします。彼の最初の発見であり、最初の国際的評価でしょうか。明治24年、熊楠24歳の時です。

こんな感じに14年間海外を渡り歩き、イギリスでは大英博物館に入り浸って英語・フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・ギリシャ語・ラテン語の文献を読みあさり(18ヶ国語をこなした)、克明なメモを4万8千枚残しました。そして、在英中に発表した論文で、イギリスの学会で認められます。

のちに熊楠がまとめた『日本産 菌蕈きんじん 類図譜稿本』に取り上げられた標本の点数は、洋行時目標にしたバークレーの標本数の2倍を超えたとのこと。

彼の博物学的「愛」は、彼を自然保護エコロジーへと向かわせ、その先達にしていきます。

南方熊楠
牧野富太郎

学校に行かなかったと言えば牧野富太郎もそうで、牧野の場合は小学校でもう学校に背を向けています。その後は植物採集に明け暮れ、江戸時代の本草学者・小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に出会ってからは、同書を目標に、日本中の植物を収集・研究してまとめあげることに邁進しました。経済的に苦労することもありましたが、妻の支えもあって、日本中を回って膨大な植物標本を作成、1,500もの植物に名を与えていきます。目を凝らして観察すれば、道端のどんな植物にも驚くべき精巧さと美しさがある。牧野はどんな植物も「雑草」ではないと主張します。やはり「愛」です。

朝夕に草木を吾れの友とせば
こころ淋しき折節もなし(牧野富太郎)

西岡秀雄
西岡秀雄

当地の郷土博物館(「大田区立郷土博物館」(東京都大田区南馬込五丁目11-13 map→)) の初代館長・西岡秀雄の博物学的「愛」にも舌を巻きます。西岡は、20歳前後から、遺跡発掘に携わって多くの実績を残していきますが、考古学は、太古の人々の生活・習俗に関わるもので、その心のありようにも当然関心を広げ、その関心は、現在に連なる人間の生活のあらゆる場面・断面にも向けられるようになりました。世界各国のトイレットペーパー、ハエ叩き、箸袋、マドラー、玩具などを収集・考察し、ユニークな本を著しています。

中瀬喜陽『南方熊楠 〜森羅万象に挑んだ巨人〜 (別冊「太陽」 』(平凡社) 牧野富太郎 『植物記(ちくま学芸文庫)』
中瀬喜陽『南方熊楠 〜森羅万象に挑んだ巨人〜 (別冊「太陽」 』(平凡社) 牧野富太郎 『植物記(ちくま学芸文庫)』
西岡秀雄 『トイレットペーパーの文化誌』(論創社) 青木淳一『博物学の時間 〜大自然に学ぶサイエンス〜』(東京大学出版会)
西岡秀雄 『トイレットペーパーの文化誌』(論創社) 青木淳一『博物学の時間 〜大自然に学ぶサイエンス〜』(東京大学出版会)

■ 参考文献
●『南方熊楠(新潮日本文学アルバム)』(評伝:神坂次郎 年譜:中瀬喜陽 平成7年初版発行 平成12年4刷参照)P.4-24、P.90、P.104-106 ●『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館 平成19年発行)P.32-33 ●「“クマグスの森 南方熊楠の見た夢”展」(site→) 展示資料(ワタリウム美術館 平成19年10月7日~平成20年2月3日) ●「企画展 田園調布の遺跡発見! 〜初代館長、西岡秀雄の足跡〜(展示解説リーフレット)」(林 正之 東京都大田区立郷土博物館 令和4年発行)

■ 参考映像:
●「「私は植物の精である」牧野富太郎 夢の植物図鑑」(NHK 平成31年放送)

※当ページの最終修正年月日
2022.2.1

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