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熊楠はこのような観察記録を大量に残した ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「クマグスの森展 〜南方熊楠の見た夢〜」(主催・会場:ワタリウム美術館)の展覧会用パンフレット 明治18年2月1日(1885年。 南方熊楠(17歳)が当地の大森貝塚(東京都品川区大井六丁目21-6 map→)にやって来て、バイ(巻貝の一種)1個と土器2片を採集しています。モースが大森貝塚を発見したのが明治10年ですから、その8年後。熊楠は3ヶ月後の5月12日にも訪れ、土器20片と骨1片を採集しました。 熊楠はその頃までに、他の遺跡にも足を伸ばしたようですし、他にも魚介類、植物、昆虫、鉱物を採集。小学生の頃から、登校時に面白いものがあるとその場で弁当を食べてしまい、空の弁当箱に、その藻やら昆虫やら蟹やらをつめ、家に持ち帰るといった感じで、2日も3日も、寝食を忘れて、野山を駆け巡ることも。 彼の採集は、「筆写」「記憶」といった形でもなされました。なんと、明治8年頃(8歳頃)から、『和漢三才図絵』(
熊楠が、和歌山県和歌山市で生まれたのが、慶応3年4月15日。慶応は4年までで、途中で明治になるので、明治元年(慶応4年)に満1歳です。夏目漱石と同様、明治の元号年と満年齢が一致します。 家は和歌山一の金物屋だったようですが、地元では江戸時代の名残で旧藩士とその家族たちが威張り、商家の次男坊の熊楠は彼らから「鍋屋の熊公」と呼ばれ、コケにされたようです。その屈辱が、幼い頃から熊楠を奮発させ、“知的武装”へと駆り立てていったようです。 明治16年、和歌山中学を卒業後、上京。「大学予備門(後の第一高等学校、東京大学)」に入るための予備校「共立学校」に入学(幸田露伴と同級)、翌年(明治17年。17歳)、「大学予備門」に合格します。夏目漱石、山田美妙、正岡子規、秋山
「共立学校」時代も、「大学予備門」時代も熊楠は、お仕着せの学問(向こうからやってくる知識)には興味を持たず、自身の興味・関心・ワクワクする気持ちに忠実でしたから、彼の“知識”には「愛」がありました。もっぱら図書館で学び、でなければ酒を飲むか、採集。大森貝塚にやって来たのは、「大学予備門」入学の翌年(明治18年。18歳)です。 そんな“バランスを欠いた学び方”だったので、数学で落第。それをいいことに(?)、翌明治19年(19歳)には中退し、その年中に渡米。「愛」があるので行動が大胆です。皆と同じようでいることを美徳とするような国に到底収まるような人物ではありませんね。 熊楠は洋行し、英国のバークレーたちが世界最初の標本集を刊行したのに刺激され、それを超えるものを収集してみせるとの闘志を燃やしました。幕末に列強からの暴力(帝国主義)に蹂躙された日本人であり、その傷を負ってまもない頃ですから、西洋に対しての「なにクソ」も強かったことでしょう。熊楠の関心は多岐にわたりましたが、その一つの柱が菌類になったのは、バークレーたちが作った標本集が菌類のものだったからなのでしょう。 米国でも熊楠はやはり学校にはほとんど通わず、原野の“バケモノ屋敷”と呼ばれた一軒家を拠点に、3〜4日かかる雪の道も厭わずに採集に邁進、151種の菌類の標本をまとめて『ミシガン州産諸菌集』を完成させます。これが博物学者としての最初の仕事のようです。 フロリダでは、八百屋と肉店をやっている中国人の こんな感じに14年間海外を渡り歩き、イギリスでは大英博物館に入り浸って英語・フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・ギリシャ語・ラテン語の文献を読みあさり(18ヶ国語をこなした)、克明なメモを4万8千枚残しました。そして、在英中に発表した論文で、イギリスの学会で認められます。 のちに熊楠がまとめた『日本産
彼の博物学的「愛」は、彼を自然保護、エコロジーへと向かわせ、その先達にしていきます。
学校に行かなかったと言えば牧野富太郎もそうで、牧野の場合は小学校でもう学校に背を向けています。その後は植物採集に明け暮れ、江戸時代の本草学者・小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に出会ってからは、同書を目標に、日本中の植物を収集・研究してまとめあげることに邁進しました。経済的に苦労することもありましたが、妻の支えもあって、日本中を回って膨大な植物標本を作成、1,500もの植物に名を与えていきます。目を凝らして観察すれば、道端のどんな植物にも驚くべき精巧さと美しさがある。牧野はどんな植物も「雑草」ではないと主張します。やはり「愛」です。 朝夕に草木を吾れの友とせば
当地の郷土博物館(「大田区立郷土博物館」(東京都大田区南馬込五丁目11-13 map→)) の初代館長・西岡秀雄の博物学的「愛」にも舌を巻きます。西岡は、20歳前後から、遺跡発掘に携わって多くの実績を残していきますが、考古学は、太古の人々の生活・習俗に関わるもので、その心のありようにも当然関心を広げ、その関心は、現在に連なる人間の生活のあらゆる場面・断面にも向けられるようになりました。世界各国のトイレットペーパー、ハエ叩き、箸袋、マドラー、玩具などを収集・考察し、ユニークな本を著しています。
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