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ナチスのポーランド侵攻、その翌朝(昭和14年9月2日、堀辰雄、軽井沢の聖パウロ・カトリック教会のミサに参加)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽井沢の聖パウロ・カトリック教会の“木の十字架”


堀辰雄

昭和14年9月2日(1939年。 堀 辰雄(34歳)が、津村信夫(30歳)、神保光太郎(33歳)と、聖パウロ・カトリック教会(長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢179 map→)のミサに参列しています。

「ポーランド公使館」と記された自転車に乗った2人の少女が教会に入っていき、彼女らに誘われるように、3人も教会のドアを押したのでした。前日(昭和14年9月1日)、ナチス=ドイツがポーランドの侵攻を開始したことを、彼らも知っていました。

その時のことを、は、『木の十字架』Amazon→ 青空文庫→というエッセイに書いています。

・・・私はそういうお下げ髪の少女たちの後姿にいつまでも目をそそいでいたが、そのうち何気なく、立原の形見の一つである、パスカル少年のうたったドビュッシイの歌なぞを胸に浮ばせていた。それはドビュッシイが晩年病床にあって、無謀なドイツ軍のベルギイ侵入の事を聞き、家も学校も教会もみんな焼かれてしまった可哀かわい そうな子供たちのために、彼等の迎えるであろうわびしいクリスマスを思って、作曲したものだった。

(クリスマスよ、クリスマスよ、どうぞ彼等のところへは行かないで。もう決して行かないで。そうして彼等を らしてやっておくれ。)

 いま、そうやっていたいけな様子でお祈りを続けているそのポオランドの少女たちが、ふいと立ち上るなり、いまにもそんな悲しい叫びを発しそうな気がする。そう、この歌のレコオドはまあ何という偶然の運命から私の手もとに今あるのだろう。ちょっとその少女たちを私の家に連れていってそれを聴かせてやったら、まあ彼女たちはどんなに目を かがやかす事だろう……と、そんな事を考えているうちに、ふいと眼頭めがしら の熱くなりそうになった ・・・(堀 辰雄『木の十字架』より

文中の「立原」は、5ヶ月ほど前に死去した立原道造(24歳)のこと。このエッセイは立原を偲んで書かれたものです。文中の「ドイツ軍のベルギイ侵入」は、第一次世界大戦時(大正3-7年)のことでしょう。

そして、21年経ち、ドイツはまたポーランドに侵攻(ナチス=ドイツはすでにオーストリア、チェコスロヴァキアを併合)。『木の十字架』には、その2日目の感慨が記されています。日本はナチス=ドイツと深い繋がりがあったので、この時期にこのエッセイを発表したは勇敢です(昭和15年7月発表)。

イギリスとフランスがナチス=ドイツに対して宣戦し、第二次世界大戦が始まりますが、当初、イギリスとフランスは、譲歩と話し合いで戦闘を回避しようという宥和政策を取りました。1600万人以上の死亡者を出した第一次世界大戦の深い反省があったからです。しかし、それをいいことに、ナチス=ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへと侵攻、昭和15年には、フランスの首都・パリを占領(6月14日)。北アフリカ、ユーゴスラヴィア、ギリシャにも侵攻し、ナチス=ドイツを盟主とする枢軸国は、ヨーロッパの半分ほどを支配するに至ります。ヒットラー(パリ占領時51歳)は、譲歩とか話し合いとかが通じるノーマルな相手ではなかったのです。

ナチス=ドイツの侵攻後、ポーランドには、東からソ連も侵攻(昭和14年8月末、独ソは不可侵条約を締結していた。ファシストとも手を組む当時のソ連共産党の実態)、首都ワルシャワが陥落して(昭和14年9月27日)、ドイツ・ソ連によって占領されます。両国による占領下のポーランドでは、その後の2ヶ月間で1万6000人以上が処刑されました。民族意識を抹殺するために、医師や弁護士など知識人のおよそ50%が処刑されたとのこと。

ソ連はその後、バルト三国、フィンランドへの圧力を強め、圧力に屈しないフィンランドとは「冬戦争」(昭和14〜15年)となりました(ソ連は国際連盟から除名される)。

ヒットラーが狂的な手を打てたのは、彼が熱狂的に支持されていたからに他なりません(昭和9年の国民投票で89.9%が支持)。第一次世界大戦の莫大な賠償金に喘ぐ国民に経済的な“夢”(「国民車構想」など)を与え、それを大胆に実践し、結果を出しました。ヒットラーが首相になった昭和8年からの5年間で工業総生産が倍増し、昭和4年からの世界恐慌からドイツは一早く抜け出したのです。ヒットラーが何を言い出しても、“英雄”に祭り上げられた彼を止め得る人はもう存在しません。ヒットラーはラジオ放送など広告メディアを利用(悪用)するのにも けていました。

ヒットラーは昭和8年に全権委任法を成立させ、国会の立法権を一手に掌握。国民革命と称して自治体の権力も奪い、ナチス党に以外の政党を禁じ、労働組合などをナチスの組織として統廃合して、ゴリゴリの独裁制を完成させたのです。突撃隊、親衛隊、ゲシュタポ(国家秘密警察)を使って、民主的な意見は恐怖と暴力で弾圧昭和10年にはユダヤ人の公民権を剥奪して(「ニュルンベルク法」)ユダヤ人への弾圧を強めていきます(結果、500万人〜600万人のユダヤ系市民を組織的に殺した)。

パリの凱旋門を行くナチス=ドイツ兵 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/ナチス・ドイツのフランス侵攻(令和3年8月21日更新版)→ パリの凱旋門を行くナチス=ドイツ兵 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:Deutsches Bundesarchiv (German Federal Archive)→

昭和15年になると、イギリスではチャーチルが首相になって徹底抗戦の構えとなり、フランスでもド・ゴールを中心とするレジスタンス(対独抵抗運動)がおこります。ナチス=ドイツ制圧下のオランダにいたオードリー・ヘップバーンは母親がレジスタンスに参加、彼女も靴に手紙を忍ばせて伝令をしました。中立を保ってきた米国も、民主主義擁護を掲げルーズベルト武器貸与法を成立させ、ナチス=ドイツや日本の侵略に抗う国に物資援助を始めます。

ナチス=ドイツがバルカン半島に侵攻したことで、当地に執着するソ連との間が緊張。ドイツが独ソの不可侵条約を無視してソ連を奇襲(後に不可侵条約を無視してソ連が日本の勢力下の満州や樺太に侵攻することに、お墨付きを与えたか)、独ソの「大祖国戦争」(昭和16〜20年)が始まり、大戦の様相が一変します。ソ連はモスクワ攻防戦を持ちこたえて長期戦に持ち込み、イギリスや米国との協調を考えコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)を解散

昭和17年、米国、イギリス、ソ連、中国など26カ国がファシズム打倒を目標に連合国共同宣言に調印し、攻勢に転じます。翌昭和18年にはロシア南部のスターリングラード(現・ヴォルゴグラード)の攻防戦でソ連軍がドイツ軍を下し、連合軍はシチリア島に上陸、イタリアを無条件降伏に追い込み、翌昭和19年には北フランスのノルマンディーに上陸パリを奪還、西部戦線を突破してソ連もポーランドの首都ワルシャワに迫りました。翌昭和20年、ナチス=ドイツは東西から板挟みにあい、都市は空爆され、交通網も寸断、ソ連軍により首都・ベルリンが包囲され、4月30日、ヒットラー(56歳)は自殺。しかして、ヨーロッパでの戦争はようやく終わります。残るは日本・・・

アントニー・ビーヴァー 『第二次世界大戦1939-45(上)』(白水社) 芦田 均 『第二次世界大戦外交史(上) (岩波文庫) 』。学究でもあった芦田の警世の書
アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(上)』(白水社) 芦田 均 『第二次世界大戦外交史(上) (岩波文庫) 』。学究でもあった芦田の警世の書
渡辺克義『物語 ポーランドの歴史 〜東欧の「大国」の苦難と再生(中公新書)』 アントニー・ビーヴァー、 アーテミス・クーパー『パリ解放 1944-49』(白水社)。訳:北代美和子
渡辺克義『物語 ポーランドの歴史 〜東欧の「大国」の苦難と再生(中公新書)』 アントニー・ビーヴァー、 アーテミス・クーパー『パリ解放 1944-49』(白水社)。訳:北代美和子

■ 馬込文学マラソン:
堀 辰雄の『聖家族』を読む→

■ 参考文献:
●『評伝 堀 辰雄』(小川和佑 六興出版 昭和53年発行)P.169-172 ●『堀 辰雄集(日本文学全集31)』(新潮社 昭和35年初版発行 昭和39年12刷参照)P.317-324、P.508-509 ●『詳説 世界史研究』(編集:木下康彦、木村靖二、吉田 寅 山川出版社 平成20年初版発行 平成27年発行10刷参照)P.497-506 ●『赤狩り』(山本おさむ 小学館)1巻(平成29年発行)vol.6「オードリーの靴」、2巻(平成30年発行) 「「事実」と「フィクション」に関する作者註」

■ 参考映像:
●「第二次世界大戦・時代は独裁者を求めた(NHKスペシャル/新・映像の世紀(第3集))」 ※初回放送:平成27年

※当ページの最終修正年月日
2023.9.2

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