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ある出版社の興亡(大正8年4月3日、総合誌「改造」、創刊される)-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

改造」創刊号の表紙。絵柄は、その年(大正8年)1月18日から開催された「パリ講和会議」(第一次世界大戦の講和会議)の会場・ベルサイユ宮殿。石井柏亭の多色刷り版画 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用

 

山本実彦

大正8年4月3日(1919年。 山本実彦(33歳)が総合誌「改造」を創刊しました。 山本が選挙に立候補するにあたっての宣伝誌の予定でしたが、どうせやるなら、と政治、経済、社会から文芸、科学まで扱うこととなります。

定価は60銭(現在の1,200円ほどか)で、現在の単行本ほどのサイズ。ドイツの賠償金問題、安部磯雄(54歳)による「労働問題」、銀行の統合問題、与謝野晶子(40歳)と山田わか(39歳)による「婦人問題」などの記事と、尾崎行雄(60歳)の随筆、土井晩翠(47歳)の詩、幸田露伴(61歳)の小説『運命』、正宗白鳥(40歳)の小説『我善坊にて』などが掲載されました。

ところが、売れません。

似た傾向の総合誌「中央公論」(明治20年創刊)は、当初、「改造」の創刊を脅威に感じたでしょうが、「中央公論」の編集長・滝田樗陰は、創刊号の「改造」を手にとってぺらぺらやるだけで、大したことないと見切ったようです。編集方針に、新しさも、一貫したものもなかったのです。

創作欄に、人気作家の谷崎潤一郎や田山花袋を持ってきてもダメでした。3号までは返本の山で、手広く始めただけにダメージも大きく、存続が危ぶまれました。

たちまち資金がつき、広津和郎(「改造」創刊時27歳)が執筆料の前借りを山本に頼むと、山本は金時計をもって質屋に走り、50円用立てたとのこと。東京品川に建てたばかりの豪邸も山本は手放します。

山本は廃刊を決めますが、編集員の秋田忠義と横関愛造(32歳)が反対します。そして、次の号を全て自分たちに任せてほしいと申し出ました。山本は口出ししないことを約し、そしてできあがった第4号は 「労働問題・社会主義」特集。ロシア革命の影響で、日本人も労働問題や社会主義に強い興味を持ち始めましたが、治安警察法や出版法で厳しく取り締まられていて類書はほとんどなく(出版されても発禁になった)、読者は「改造」第4号に飛びつきました。発行した3万部は2日間で売り切れとなります。

当然発禁も予想されたので、秋田と横関は、執筆者をだいたい帝大教授に絞り(役人は帝大教授に弱い?)、さらには、執筆者一覧を内務省の警保局に持っていってお墨付きを得ています。で、影では、堺 利彦山川 均や小泉信三(共産主義研究者だが批判的立場をとった)のところに行って話を聞いている(笑)。

第4号を成功に導いた二人のうちの一人、横関は、仕事をよりスピーディーにこなすために、山本の家の横に引っ越しています。

もう一人の秋田は、後のこととなりますが(「改造」の編集部からはもう退いていた)、実は当地(東京都大田区)の“馬込文士村”の一員といってもいい人物です。南馬込あたりに住み、「大森相撲協会」にも名を連ねているし尾﨑士郎がまだ宇野千代と正式に離婚する前に(?)、古賀家(尾﨑の次の妻になる古賀清子の家)に羽織袴で結納を持っていったりしています。秋田が夜逃げするかのごとく当地の家を捨てて去っていったことから、尾﨑の小説『空想部落』の主人公・横川大助のモデルの一人と考えていいのではないでしょうか。

改造」は第4号以後、当局からの圧力を激しくなり、第6号からは何度も発禁処分を受けつつも、日本を代表する左系のオピニオン誌として君臨します。

現存する改造社社屋(銀座) 現存する改造社社屋(東京中央区銀座5-13-18 Map→)。今は出版はしておらず、書店のみの営業のようだ

山本は第4号こそは宿屋に引きこもって編集に一切口出ししませんでしたが、本来が活発な人なので、単行本発行にも乗り出し、最初に出版した賀川豊彦(「貧民街の聖者」と呼ばれたキリスト教社会運動家)の『死線を超えて』が、2年間で80万部売るといった当時では大ベストセラーとなり経済的基盤を固めます。

また、世界で話題の人物を日本に招聘して、そのたびにブームとなります。第一次世界大戦に反対して投獄されたイギリスの哲学者・ラッセル、ノーベル物理学賞の受賞が決まった直後のアインシュタインなど。

改造社は、関東大震災と度重なる発禁で経営はどん底となりますが、大正15年、市価10円ほどの本を1円で売る、いわゆる「円本えんぽん 」で再び大きな成功を収めます。関東大震災で本を焼いてしまった人など活字に飢えている人たちが飛びつきました。1冊1円ですが、全巻予約制の薄利多売。全63巻の「現代日本文学全集」を25万も売りました。円本は、改造社に続いて新潮社、春陽堂、平凡社なども出し、その出版社だけでなく、全集に収録された執筆者をも潤します。小説家といえばカツカツの「貧乏文士」と相場が決まっていましたが、いつの間にか「作家先生」になる者も。吉屋信子は「円本」の印税からの稼ぎをつぎ込んで1年間近くの世界旅行に出ています「岩波文庫」というシステムが編み出されたのは、出版界を席捲した「円本」に対抗するため。

大正14年に制定された「治安維持法」(私有財産や天皇制に否定的な考えを持つと見なされた人を取り締まる法律)によって多くの人が刑務所送りとなりますが、改造社の大きな打撃を受けるのは昭和17年、ある会合が日本共産党(非合法だった)の再結成の謀議であると勝手に見なされ(でっち上げられ)(「とまり 事件」)、同席していた「中央公論」「改造」の編集者ら60名ほどが逮捕され、その内30名が有罪となり、内4名が獄死(神奈川県警の管轄内で起きたため「横浜事件」と呼ばれる)。この事件の余波で「中央公論」と「改造」は廃刊に追い込まれます。両誌とも戦後復刊しますが、「改造」は 持ち直すことができず昭和30年に再び廃刊となりました。

『暗夜行路』(志賀直哉)、『昭和初年のインテリ作家』(広津和郎)、『雪国』(川端康成)も、初め「改造」に掲載されたものです。

松原一枝『改造社と山本実彦』(南方新社) 太田哲男「若き高杉一郎 ~改造社の時代~』(未来社)
松原一枝『改造社と山本実彦』(南方新社) 太田哲男「若き高杉一郎 ~改造社の時代~』(未来社)
『ドキュメント 横浜事件 ~戦時下最大の思想・言論弾圧事件を原資料で読む~』。編集:「横浜事件・再審裁判=記録 資料刊行会」 (高文研) 「横浜事件を生きて [DVD] 」(ビデオプレス)。事件で生き残った木村亨の再審請求の戦い。彼らはなぜ捕まり、どのような拷問を受けたか。また、拷問をした側は戦後どうなったか。DVD購入者は上映会可とのこと
『ドキュメント 横浜事件 ~戦時下最大の思想・言論弾圧事件を原資料で読む~』。編集:「横浜事件・再審裁判=記録 資料刊行会」(高文研) 「横浜事件を生きて [DVD] 」(ビデオプレス)。事件で生き残った木村亨の再審請求の戦い。彼らはなぜ捕まり、どのような拷問を受けたか。また、拷問をした側は戦後どうなったか。DVD購入者は上映会可とのこと

■ 馬込文学マラソン:
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→

■ 参考文献:
●『改造社と山本実彦』(松原一枝 南方新社 平成12年発行)P.83-114 ●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.101-103 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.41 、P.49 ●『馬込文士村』(榊山 潤 東都書房 昭和45年発行)P.51-57  ●「27年前の「横浜事件」映画 続々再上映/言論封じへの危機感/「共謀罪」審議の中「歴史の教訓に」」 ※「東京新聞(夕刊)」(平成29年5月15日号)に掲載

※当ページの最終修正年月日
2024.4.3

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