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7人の少女が洋館に集まり、1人ずつ、花にまつわる話をしていく。* どの話も女性同士の友情や愛の物語。 少女と少女であったり、少女とお姉さんであったり、少女と奥さんであったりといろいろだが、女性同士であることは共通している。年頃の少女たちなのに、男女の話が1つもないのが面白い。そもそも、『花物語』には男性はほとんど登場しないのだ。女性が女性を励まし、女性が女性を助け、女性が女性を慈しむといった話で埋め尽くされている。* 戦後長らく『花物語』は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」といった古い性道徳に縛られた物語と考えられたようだが、近年では、むしろ、同性愛を果敢に打ち出した小説と評価されているようだ。* タイトルは全て花の名だ。 「鈴蘭」「月見草」「白萩」「野菊」「山茶花」「水仙」「名も無き花」・・・と、それらの花がそれぞれの物語で印象的に登場する。 花好きにはたまらないだろう。* 悲しいお話が多い。が、それは当然のことで、“悲しみ”があり、その自覚こそがそれぞれを結びつけるのだろうから。* 微笑ましい箇所もあり、「忘れな草」 という話には、次のような場面がある。運動会の日、憧れの上級のお姉さんが、かけっこで1位を取った子を並べる役をやっている。 豊子という少女はそのお姉さんに手を引かれてその元に並びたくて、1位を目指して必死に走る。* ・・・紫の薄煙が銃口から昇ると共に(走れ)と音は鳴つた。 ひとしく地を離れた選手の足並み!! 抜き手を切つて、みなぎる大河を泳ぐ勢ひ口々に友の親しき名を呼んでフレーを叫ぶ群衆のどよめき、その中を走り抜く豊子の瞳にうつらふものは、たヾ霞の奥に閃く星影のやうに、ひらめきなびく旗のもとに立つ美しい幻ばかりであつた、その幻を追うて走りゆく豊子をふいにひしと抱き止めた優しき腕があつた。 この腕の与えられないならば、豊子は圓内を幾度走りまはるとも知るを得なんだらうに。 憧れると、こんなに一生懸命になれるのだ!* 純粋に、熱く、人に憧れるのは、それだけでもう美しい。 『花物語』 は、そこかしこにそんな花が開く。** 『花物語』は近年にいたるまで、新しい体裁で出版され続けている。 100年近く読み継がれている小説はそうあるものでもないだろう。* 扉には以下の言葉が置かれている。 返らぬ少女の日の と。『花物語』 は女性読者にあてた吉屋からのラブレターかもしれない。* 『花物語』 について吉屋信子作。大正5年(19歳)から「少女画報」「少女倶楽部」に連載。 7話完結の予定だったが、読者からの強い要望によって52話まで書き継がれる(大正13年までの9年間)。*
吉屋信子について
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吉屋信子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『吉屋信子(道の手帖)』(河出書房新社) |
19歳で書いた『花物語』が大ヒット
明治29(1896)年1月12日、新潟市で生まれる。 父親は、足尾鉱毒問題のただ中、被害地の一つの栃木県下都賀郡で郡長を務めたという人。 多くの家がそうだったように家父長主義・男尊女卑の考えを持ち、信子は八人兄姉弟妹の紅一点として、常に父親からの圧迫・差別を感じて育った。
8歳から子ども向けの雑誌をむさぼり読む。 特に、 『クオレ』 『十五少年(十五少年漂流記)』 を愛読。 9歳のとき、小学校の担任から作文をほめられ、自信を得て、少女雑誌に投稿するようになった。
栃木高等女学校の入学式で新渡戸稲造の講演あり。 「一人の女であるよりも一人の人間であれ」 の一節に感動する(12歳)。
明治43年(14歳)、雑誌 「少女界」 の懸賞小説で一等を取る。 大正5年(19歳)、東京の兄を頼って上京。 雑誌 「少女画報」 に 『花物語』 を連載し、話題になる。 その頃 「青鞜」 にも投稿した。
徹底して女性を描く
大正9年(24歳)、「大阪朝日新聞」に 『海の極みまで』 を連載。 父親の喪中、萩市の実家で書いた 『屋根裏の二処女』 も高い評価を受ける。
大正12年(27歳)、山高しげりに、門馬千代を紹介される。 以後門馬は吉屋の公私にわたる生活を支えた。 昭和3年(32歳)、門馬を伴って、約一年、モスクワ、ヨーロッパ各地、アメリカを巡ぐる。 この頃、 『女の階級(Amazon→)』を執筆、プロレタリア文学の全盛期だったが、吉屋は 「資本家」 対 「労働者」 よりもむしろ 「男性」 対 「女性」 の階級構造を根本的な問題と捉えた。 昭和10年(39歳)、 『女の友情』 を執筆。 女性同士の美しい連帯が描かれる。 昭和11年、林芙美子、宇野千代、平林たい子、佐多稲子、円地文子らと女流文学者会を結成、初代会長になる。 昭和12年(41歳)、『良人の貞操(Amazon→)』 を執筆。 女性に求められる貞操がなぜ男性には求められないのかを問題にした。 戦中はペン部隊に参加。
問題作『安宅家の人々』
昭和27年(56歳)、知的な障害を持つ男性を理想的に描いた問題作 『安宅家(あたかけ)の人々』 を上梓。 また、歴史小説でないがしろにされがちだった女性(特に正妻)にスポットをあて 『徳川の夫人たち』『女人平家(Amazon→)』を書く。後者は吉屋最後の大作となる。*
昭和48(1973)年7月11日、鎌倉腰越の恵風園病院(恵風園診療所。昭和5年、帝大在学中の太宰 治が心中未遂で担ぎ込まれた病院。鎌倉市腰越一丁目4-5 map→)で息をひきとる。死因は結腸ガン。満77歳だった。遺言により、土地、邸宅、備品、6,000冊もの蔵書、資料、原稿などは住まいがあった鎌倉に寄贈され、著作権は友人であり伴侶の門馬千代が継承。 邸宅(吉田
吉屋信子『自伝的女流文壇史 (中公文庫 )』* | 田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子〈上〉 〜秋灯(あきともし)机の上の幾山河〜 (朝日文庫)』 |
大正10年(25歳)、兄忠明が北海道から東京本社に移り、当地(西沼:現在の大森税務署<東京都大田区中央七丁目4-18 map→>あたりか)に居を構え、吉屋と母を迎える。この家に岡本かの子が訪ねてきたこともあった。*
1年ほど住み、東京本郷に移転した兄忠明にしたがう。その後大正13年(28歳)から再び当地(今度は不入斗。東京都大田区大森北五丁目 4 map→)に母親と住んだ。 近くの宇野千代と交遊。
大正15年(30歳)、東京下落合に、自分で設計した洋館を建てて移転。門馬も同居する。当地(東京都大田区)在住期間は断続的に5〜6年ほど。*
徳富蘇峰とは、当地在住時の大正11年、大森駅で知り合った。*
●『吉屋信子 ~隠れフェミニスト』(駒尺喜美 リブロポート 平成6年発行) P.251-252、P.269-270、P.278 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』 (東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.81 ● 『地図でみる大田区(1)』(東京都大田区)P.9 ●『馬込文学村20年』 (今井達夫 鵠沼を語る会 平成24年発行) P.41-43 ● 『私の見た人(朝日文庫)』(吉屋信子 昭和54年発行) P.20-21
●美作女子大学 /美作女子大学短期大学部紀要/吉屋信子「花物語」の変容過程をさぐる -少女たちの共同体をめぐって-→ ●文学者掃苔録図書館/吉屋信子→ ●高い城・知の寄り合い所帯/女性学の間/第2部 日本/第2賞 明治から終戦まで/第1節 吉屋信子→ ●日本映画データベース/吉屋信子→ ●鎌倉市/吉屋信子記念館→ ●asahi.com/文化・芸能/文化/文化一般/「女流文学者会」70年で幕 10月シンポ→ ●落合道人/吉屋信子が恋したたったひとりの男。→
※当ページの最終修正年月日
2020.9.28