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窮民は兇徒か?(明治18年10月31日ごろより、足尾銅山鉱毒事件、報じ始められる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治28年頃の足尾銅山。大規模になるにつれ鉱毒による害も拡大した ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大日本帝国の確立(画報 日本近代の歴史 5)』(三省堂)*


明治18年10月31日(1885年。 )、「下野しもつけ 新聞」が足尾の木が枯れ始めていることを報じました。この頃から、足尾銅山(「足尾銅山通洞選鉱所跡」( 栃木県日光市足尾町中才1-1 Map→)の公害をマスコミが報道し始めました。

足尾銅山は江戸時代初期から幕府の直轄で栄えましたが、幕末からは産出量が激減。明治10年、政府から足尾銅山の払い下げを受けた古河市兵衛(45歳。古河財閥の創業者)は、志賀直道(50歳。志賀直哉の祖父)や渋沢栄一(37歳)の協力を得て、再開発に着手します。6年後の明治16年に豊かな鉱脈を発見し、銅の産出量が復活。水力発電など欧米技術を導入して大規模に操業し、日本最大の銅山となりました。

ところが、生産第一の経営によって、煙害が発生し、精錬に必要な木材の乱伐によって山林も荒廃、山林の荒廃から大洪水も頻発し、また、有毒の廃石や排水が垂れ流されたため、渡良瀬川の漁業被害も顕在化してきます。

明治14年、栃木県知事の 藤川為親 ふじかわ・ためちか (45歳)が廃液で渡良瀬川が汚染されているとし、食の安全を顧慮してそこの魚を食べるのを禁じます。その後藤川は島根県に追われました。藤川が日本における公害の初の告発者でしょうか。

問題は放置され、明治23年に大洪水が起こります。有毒の廃石・排水は、洪水によって田畠にも広がり、大きな農業被害も引き起こし、人体への影響も憂慮されました。

田中正造

翌明治24年、田中正造(49歳)が国会で足尾の鉱毒問題を取り上げ、政府の鉱山監督行政を批判。しかし、政府は善処せず、問題の記録集が発行されるや発売禁止にしました。鉱山側は明治29年までに鉱毒をなくすことを約し、住民に示談金を払って一旦は決着した形となります。

しかし、明治29年になっても鉱害が無くなりませんでした。同年、田中(54歳)を中心に雲龍寺(群馬県館林市下早川田町1896 Map→)に鉱毒問題に取り組む事務所を置き、そこを拠点に農民たちの大規模な陳情(「押出し」と呼ばれた)が行われるようになります。参加人数は2,000〜10,000名ほど。窮乏していた彼らは鉄道へは乗らず徒歩で東京に向いました。

世論の高まりもあって、政府は委員会を設置、鉱毒予防令を発布します。鉱山側は排水の濾過池、沈殿池、堆積場を設置したり、有害な 硫黄 いおう を取り除く装置を煙突に取りつけるなどしました。ところが、明治31年には濾過池・沈殿池が決壊し再び多くの鉱毒が流れ出ました。明治33年に行われた4回目の大規模な「押出し」では、農民側とそれを阻止しようとする警察側とが衝突、農民側から67名(68名?)の逮捕者が出ます(「川俣事件」)。彼らは「 兇徒聚衆 きょうとしゅうしゅう 罪」といった罪に問われました。「足尾銅山鉱毒事件」にも、抗議する人・抵抗する人への弾圧がありました。

そんなこともあって、明治34年12月10日、田中(59歳)は、東京日比谷で、明治天皇へ直訴しようとします。警備の警察官に取り押さえられて未遂に終わりますが、マスコミが大きく取り上げたことによって、足尾鉱毒問題が広く知られるようになりました。直訴状は、名文家として知られた幸徳秋水(30歳)(当時「萬朝報よろずちょうほう」の記者)が書き、田中が手直ししたようです。田中は遺書を書き、妻のカツに累が及ばないよう離縁状を送っています。

甚大な被害を出しながらも足尾銅山を政府が閉山させなかったのは(明治天皇も反対しなかった?)、兵器を作るために銅の産出が必要だったことが大きかったでしょう。「足尾銅山鉱毒事件」は日清・日露の両戦争の最中に起こりました。足尾銅山の被害者は、戦争被害者でもあったのです。

反対運動の盛んだった谷中村は、明治40年7月5日、土地収用法が執行され破壊されました。「大日本帝国憲法」の27条に「所有権ヲ侵サルヽコトナシ」とありましたが、その2項に「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」とあり、足尾銅山を存続させることが公益のためと判断され、被害の惨状とその改善を訴えることは公益に反する行為と判断されたのでしょう。民主主義の時代でなかった(天皇・官僚に主権のあった時代だった)ので止むをえなかったのでしょうか?

谷中村を中心とする抵抗運動は衰退し、抵抗運動の中心が足尾銅山自体になっていきます。労働条件の改善などを求める大きな労働争議があり、軍隊が出動、300余名の逮捕者が出ることもありました。北川千代の夫の高野松太郎は、大正8年11月の坑夫7,000人のストライキで活躍した人です。

田中正造の半生を描いた映画「襤褸ぼろ の旗」(昭和49年公開)。原作:宮本 研、監督:吉村 公三郎こうざぶろう 。「釣りバカ日誌」の三國連太郎と西田敏行のコンビが出演。西田はこの映画で初めてスクリーンに登場した。田村 亮、浜村 淳、中村敦夫、志村 喬も出演。成田国際空港反対運動が展開された三里塚が撮影に使われている。物語は川俣事件から始まる

田中の直訴未遂によって足尾銅山に対する世間の関心が高まり、その翌年(明治34年)、志賀直哉(18歳)も足尾銅山に行こうとします。しかし前述したように直哉の祖父の志賀直道は、古河市兵衛ととも足尾銅山の経営に関与した人物です。父の直温(なおはる)(総武鉄道創設の功労者)は、直哉が足尾銅山に関わることを許さず、直哉とて譲らず、両者の確執が深まりました。父親との確執とその克服とが、志賀文学の大きなテーマとなります(『暗夜行路』 『和解』 など)。

明治43年には、山本有三(23歳)が足尾銅山を訪ね、同年、その時の見聞を元に、戯曲「穴」(『山本有三全集(第一巻)』に収録 Amazon→)を書きました。彼の第一作です。地下200mもの坑内で働く7名の男の会話を通し、その非人間的な労働環境が浮き彫りになります。坑夫たちはじきに黒い たん を吐くようになり、それに赤いものが混じり始め、寿命は長くても30歳と言われていました。

吉屋信子の父親の雄一は、吉屋が小学一年生の時(明治35年。田中の直訴未遂があった翌年)から、谷中村を含む栃木県 下都賀しもつが 郡の郡長でした。大正7年、渡良瀬川の洪水防止と鉱毒を沈殿させるために、谷中村を含む33㎢に渡良瀬遊水地が作られますが、雄一はこの頃から住人の立ち退きを説得して回ったようです。洋服のまま土間に飛び降りて住人の前で土下座したこともあったとか。 真摯な姿に田中も感心しています。吉屋は家を訪ねてきた田中におかっぱ頭を撫でてもらったこともありました。「節くれだった太い指の手でなでるというより、つかまれる感触だった」そうです。

荒畑寒村『谷中村滅亡史 (岩波文庫) 』。明治40年の谷中村強制破壊を機に、田中正造の依頼により書かれた社会派ドキュメンタリーの古典 城山三郎『辛酸 ~田中正造と足尾鉱毒事件〜』(中央公論社)
荒畑寒村『谷中村滅亡史 (岩波文庫) 』。明治40年の谷中村強制破壊を機に、田中正造の依頼により書かれた社会派ドキュメンタリーの古典 城山三郎『辛酸 ~田中正造と足尾鉱毒事件〜』(中央公論社)
小林久三 『暗黒告知 (講談社文庫)』。足尾鉱毒事件を題材にした社会派ミステリー。江戸川乱歩賞受賞作 大庭 健『民を殺す国・日本 〜足尾鉱毒事件からフクシマへ〜 (筑摩選書)』。日本の「無責任構造」をいかに超克するか
小林久三『暗黒告知 (講談社文庫)』。足尾鉱毒事件を題材にした社会派ミステリー。江戸川乱歩賞受賞作 大庭 健『民を殺す国・日本 〜足尾鉱毒事件からフクシマへ〜 (筑摩選書)』。日本の「無責任構造」をいかに超克するか

■ 馬込文学マラソン:
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→

■ 参考文献:
●『谷中村滅亡史(岩波文庫)』(荒畑寒村 平成11年初版発行 平成17年発行2刷参照)P.7-25、P.65-67 ●「足尾銅山」(村上安正)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「足尾銅山鉱毒事件」(菅井益郎)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「「大日本帝国憲法」条文」(国立国会図書館)Site→ ● 『山本有三(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.15 ● 『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.4-7 ●『私の見た人(朝日文庫)』(吉屋信子 昭和54年発行)P.9-11 ●『山本有三全集(第一巻)』(新潮社 昭和52年発行)P.5-23、420 ●『北川千代集 壷井 栄集(日本児童文学大系22)』(昭和53年初版発行 昭和54年発行2刷参照)P.456 ●「足尾銅山争議」(村上安正)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」に収録コトバンク→ ●「渡良瀬遊水地」※「ブリタニカ国際大百科事典」に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2023.10.31

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