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昭和16年7月17日(1941年。
アジア太平洋戦争開戦の5ヶ月ほど前)の正午過ぎ、川端
絶筆は死の前日に、詠んだという次の一句。 どれだけ痛く、苦しかったことでしょう。「石枕」とは夏に使う陶器製の枕。この冷んやりとした硬さと、蝉たちの喧騒を感じながら、人生の最後を生きたのですね。 告別式は2日後の7月19日、雨の 兄の龍子は12年前の昭和4年、日本画の団体「
静かに一人茅舎の死を悼んだ中村も、中学生の頃から神経衰弱を患い、俳句を「唯一の頼みの綱」としてきた人でした。後年中村は、自らを“
茅舎は、明治29年、東京日本橋で生まれました。煙草屋をやっていた父親が、俳句や日本画、写経をよくやる人で、兄の龍子や茅舎が文学、絵画、宗教に関心をもつようになるのは、父親の影響が小さくなかったでしょう。 父が待ちし我が待ちし 第一高等学校の入試に失敗した頃、洋画を学び始め、武者小路実篤の「新しき村」つながりで岸田劉生に師事。昭和4年に劉生が死去してからは俳句に専念するようになりました。大正末より肺を患い、絵を描くのが体力的に厳しくなったこともあったでしょう。俳句は17歳頃から作っており、すでに「ホトトギス」の雑詠巻頭を飾る(大正13年。28歳)ほどでした。昭和9年(38歳)に「ホトトギス」の同人になってからは全俳壇から注目される存在となります。 絵画を志したこともあってか、茅舎の俳句には絵画的効果をねらったものがあります。 ぜんまいののの字ばかりの “ゼンマイの「の」の字”が一面に広がる、幻想的な、宗教的な空間が表現されています。「ののの」と「の」が連なっているのは偶然でないでしょう。 寂光土というのは、(極楽)浄土のことだそうです。茅舎は日蓮の『立正安国論』も読んだようですし、『聖書』にも中学の1年2年頃から親しみ、ドストエフスキーも読んでいます。自らを“白痴”と呼んだのは(茅舎が最後に出した句集の題は『白痴』)、ドストエフスキーの『白痴』(Amazon→)からでしょうか。 当地(東京都大田区池上一丁目)に来たのは昭和3年(32歳)で、没するまでの13年間過ごしています。兄の龍子が建てた家のようで、それは幸運なことと言わなければならないのかもしれませんが、羽振りのいい兄に対する思いは複雑だったかもしれません。本門寺の裏(総門の反対側)に当たる場所で、本門寺周辺の句も残しています。 杉の穂に日の 冬紅葉堂塔谷に沈み居り とび下りて弾みやまずよ寒雀 氷る田の馬込は
「本門寺山」という題で詠まれた10句の中の4句です。 1句目には、「杉の穂」と「圓光」の2つのイメージがあります。草木がほとんど葉を落とし杉の濃緑が際立ち、そこに日の光が冴え渡るのでしょう。 2句目は、「冬
3句目は、本門寺の祖師堂の前でできた句だそうです。冬の雀は寒さに備えて丸々しており、鞠が跳ねるようで可愛らしかったのでしょうね。 4句目。当地(馬込)には99の谷があると言われてきました。起伏に富んでいます。歩を進めるごとに、「凍る田」(日を受けて輝いていたかも)が、見えたり、隠れたり。
氷る夜や抱きしめたる わが心氷る華厳を慕ひ来ぬ しんかんと霜の日空のなごみけり 「厳寒(厳しさ)に耐えるもの」に美を感じる感性は室生犀星にもありました。偶然でしょうが、犀星が当地(東京都大田区)に来たのも茅舎が当地に来たのと同じ昭和3年です。 俳句における描写は「写生」と呼ばれ、その是非が言われるようですが、写すものの対象を「心」や「意識」、あらゆる「イメージ」や「リズム」にまで広げれば、全ての俳句(いや、全ての表現(絵や音楽や映像も)と言ってもいいかも)が、そのリアリティの写生に向けての試行錯誤と言えなくもないような。茅舎は、第二句集『華厳』(昭和14年。43歳)の序文で、虚子から「花鳥
細部をいくら積み上げてもリアルになるとは限らず、自然を切り取って17文字にいかに移し替えるかに俳句の難しさがあり、また面白さもあるんでしょうね。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |