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彼の画才(昭和36年5月7日に描かれた高見順のスケッチより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高見順

昭和36年5月7日(1961年。 高見 順(54歳)が自画像や抽象的な模様をたくさん描いています(少なくとも自画像5点、抽象画9点)。

16年前の昭和20年8月10日、高見は書斎の前の藤棚にツルを伸ばすカボチャをスケッチしています。それまでも形態をメモする程度のスケッチは描いていますが、スケッチらしいスケッチはこれが最初でしょうか。8月10日といえば、長崎に原爆が投下された翌日であり、日本が頼りにしていたソ連が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して攻め込んできた日の翌日。「(日本は)おしまいですね」と川端康成が呟いたと高見は日記に書いています。日本のどん詰まりの日に、高見は絵を描き始めたのでしょうか。終わっていく日に、何かを始めようと思ったのでしょうか。以後、盛んにスケッチするようになりました。

高見は戦後直後から心身の調子が優れず、胸部疾患で入院したり、箱根に転地療法に行ったり、ノイローゼ気味で執筆困難になったりしました。スケッチは、執筆に行き詰ったり、読書する元気がない時のいい気晴らしになったようです。

5月7日に描かれた5点の自画像のうちの3点を上に掲げました。右上のは自分でも「よくできた」と注釈があります。右下のは「深夜の自画像」。目や頭髪に疲れが出てますね。

高見は4年後の昭和40年に死去しますが、死の数ヶ月前までスケッチしていました。特に野菜は、くわい、ピーマン、キャベツ、ニンニク、ねしょうが、里芋などをいろいろな角度からスケッチしています、個々の野菜が持つ形態の面白さに取り憑かれたかのように。痩せ細った自分の足も、医療器具も描いています。

広津和郎

明治の終わりから大正の初め頃、志賀直哉も自画像を描いています。27〜29歳頃で、問題作『にごった頭』を書いた頃です。

志賀直哉の自画像。左より明治44年1月、明治44年6月、大正元年9月の作 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』
志賀直哉の自画像。左より明治44年1月、明治44年6月、大正元年9月の作 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』

志賀は明治34年(18歳)から7年間、内村鑑三の元に通って、キリスト教を学んできました。ところが、聖書の中の「女を見て情欲を抱くなかれ」という箇所につまずきます。聖書どおりに“清らか”に生きたいと思っても、若い肉体は女の肉体を求めてしまう。『濁った頭』には「私は十七歳の時から丁度七年間温順な基督きりすと信徒だった」のくだりがあり、この小説が志賀自身の未来予想図であることを匂わせます。

『濁った頭』で主人公の男は、聖書の言葉通りに禁欲していますが(女の肉体には関心がないように振る舞い、性欲を抑圧しますが)、反対に性欲が肥大化してしまいます。母がたの親戚の寡婦の女性が家に手伝いに来たのをきっかけに、彼女からの誘いもあってセックスに溺れていくのでした。しまいにはセックスの相手としては必要としてもその女性を愛していないことに気づいて彼女を殺害してしまうという恐ろしい小説です(女性を殺害するのは男の妄想かもしれない)。当時の志賀が、性欲を抑圧する“不自然さ”に大きな危機感を持ったことが伺えます。

自画像をよく描いた頃(明治の終わりから大正の初め頃。27〜29歳頃)志賀は『大津順吉』も書いています。

『大津順吉』にも「私は自分の信仰は十七の時からヅーツと教へを聴いて居る角筈つのはず (新宿区にあった地名)のU先生」という箇所があり、「角筈のU先生」とはまさに内村鑑三のことだろうし、『濁った頭』よりさらに自伝的です(『濁った頭』は自伝的というより自身の状況を元にした思考実験)。やはり、主人公の順吉の、キリスト教を学びつつも、聖書の中の「女を見て情欲を抱くなかれ」の箇所につまずき、でも、信じなければならないと思う自分もいて、葛藤しています。

自分の内面に深い入っていって『濁った頭』や『大津順吉』を書いたように、志賀は“自分”が表れているだろう自身の顔をじっと見つめ、自画像を描いたのでしょう。

正岡子規も、石川善助も自画像を描いています。

明治33年に描かれた正岡子規(32-33歳)の自画像 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「子規居士自画肖像」(国立国会図書館所蔵) 石川善助の自画像 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『石川善助 そのロマンの系譜』(萬葉堂出版)
明治33年に描かれた正岡子規(32-33歳)の自画像 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「子規居士自画肖像」(国立国会図書館所蔵) 石川善助の自画像 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『石川善助 そのロマンの系譜』(萬葉堂出版)

宮沢賢治は自身の頭の中のイメージを絵にしています。

宮沢賢治の水彩画 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』
宮沢賢治の水彩画 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』

地面から出た5本の腕が、苦しんでいるのか、助けを求めているのか、空を掻いています。空には怒り顔の月。人間が、天なる存在(月)の逆鱗に触れたのでしょうか? 賢治の作品(詩や童話)に関連するイメージがあるのかもしれません。

広津和郎は油彩で父親の死顔を描きました志賀直哉も油彩で描いています。里見 弴の『本音』のカバーの林檎の絵は志賀の油絵です。

芥川龍之介は晩年、傑作『河童』を書き、河童の絵も残しています。よって、彼の忌日は「河童忌」。

『レ・ミゼラブル』の著者として広く知られるビクトル・ユーゴー、誰もがどこかで聞いたことがあると思われる「ヴァイオリン協奏曲」YouTube→を作曲したメンデルスゾーン 、シンガーソングライターとして現在進行形で世界に影響を与えるボブ・ディラン、『デミアン』『車輪の下』を書いた偉大な小説家ヘルマン・ヘッセ、独特な存在感を持つ名優・浅野忠信らも、質の高い(面白い)絵画・ドローイングを数多く残し、画集も出ています。

土方明司、江尻 潔『画家の詩、詩人の絵 〜絵は詩のごとく、詩は絵のごとく〜』(青幻舎 ) 三浦 篤『自画像の美術史』(東京大学出版会)。さまざまな自画像を分析、自画像を描く意味に迫る
土方明司、江尻 潔『画家の詩、詩人の絵 〜絵は詩のごとく、詩は絵のごとく〜』(青幻舎 ) 三浦 篤『自画像の美術史』(東京大学出版会)。さまざまな自画像を分析、自画像を描く意味に迫る
ヘルマン・ヘッセ『色彩の魔術(画文集)』(岩波書店)。ヘッセにとって「描く」とはどういうことだったのか。逆境の中、40歳から描き始めた ボブ・ディラン『ブラジルシリーズ(洋書)』。※高額注意
ヘルマン・ヘッセ『色彩の魔術(画文集))』(岩波書店)。ヘッセにとって「描く」とはどういうことだったのか。逆境の中、40歳から描き始めた ボブ・ディラン『ブラジルシリーズ(洋書)』。※高額注意

■ 馬込文学マラソン:
高見 順の『死の淵より』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
石川善助の『亜寒帯』を読む→
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→

■ 参考文献:
●『高見 順 ~人と作品~』(石光 しげる  清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年発行2刷)P.197-199 ●『高見 順日記 第四巻』(勁草けいそう 書房 昭和39年発行)P.372-384 ●『続 高見 順日記 第5巻 〜死生の十字路 3〜(昭和40年1月-4月)』(勁草書房 昭和51年発行)P6、P.9-11、P.20-22、P.36-41、P.44-46、P.91、P.236-237、P.255-256 ●「志賀直哉評伝」「志賀直哉略年譜」( 紅野敏郎こうの・としろう )※『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.26、P.29、P.62、P.105

※当ページの最終修正年月日
2024.5.7

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