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明治34年5月2日(1901年。
福沢諭吉(没後3ヶ月。同年2月3日死去)の著書『明治十年 「明治十年 丁丑公論」の「丁丑」は干支(十干と十二支の組み合わせで60を周期とする数を表現した数詞)の1つで、1877年(明治十年)がそれに当たります。つまり、著名の「明治十年」と「丁丑」は同じ意味であって、『丁丑公論』とだけいっても問題ないでしょう。* 『丁丑公論』は、明治10年1月から9月にわたって起こった(約8ヶ月間)反政府蜂起(西南戦争)の首謀者・西郷隆盛を弁護するものです。権力が専制に傾くのは常のことなので、それに抵抗するのは必要なことであって、武力を用いたことには同意できないものの、その志は諾、としました。* もう1つの『痩我慢の説』は、幕府側だった勝 海舟と榎本武揚が今や新政府サイドで一定の地位を得ていることを批判したものです。* 勝については“やすやすと”江戸城を明け渡したことを詰っています。不利であっても、ダメ元でも、子が瀕死の親を最後まで看病するように、戦うべきだったと主張しています。* ・・・昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、ひそか冷笑したるもいわれなきにあらず。・・・(福沢諭吉『痩我慢の説』より)* 虫にも劣ることで、世界中の笑いものになっているとまでいって、福沢は勝のことをこき下ろしました。* 榎本武揚についても、北海道函館を根城に新政府に抵抗したのは立派なものだが、破れ、許されるまではいいとしても、その後、新政府の大臣を歴任するにいたって福沢は榎本を厳しく批判。榎本についていって新政府軍に最後まで抵抗して命まで落とした人のためにも、箱館戦争以後は身を隠して控えめに生きていくべきだったとしました。* 福沢はこの『痩我慢の説』を、明治24年に執筆、翌明治25年に、勝と榎本に送り、意見を求めました。* 榎本は今は多忙なのでいずれ意見しましょうと逃げました(結局意見していない)。* 勝も返信しています。自分は要職になく賢い人たちに取り上げられるような人物でないのにご丁寧にどうも、と述べた後に、* 行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せず(勝の福沢への返書より)* です。自分のやったことを弁解せず、「行蔵」(出処進退)は自分に関することだけども、「毀誉」(悪く言ったり良く言ったりすること)は他人に属することなんで、どうぞご勝手に発表するなりしてくださいと書いています。* 自分が所属している「幕府」のために、城下の人々が戦火に焼かれようとも、男を上げるために戦えという福沢には、何を言っても通じない思ったのでしょう。勝は「幕府」のことだけでなく「日本」全体、「日本」を構成する全ての人々のことを考えていました。福沢のは一種のヒロイズム。他人の評価を気にしています。勝はどう批評されようが正しいと思ったことを行うまでといったスタンスでした。* 二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断いかんにあり、つとめざるべからざるなり。(福沢諭吉『痩我慢の説』より)* 世間の人はやゝもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなケチな了見で何ができるものか。(勝 海舟『氷川清話』より)* ルソーの『民約論』を早々と自らの学校(慶應義塾)の教科書に採用し、日本の民主主義啓蒙に大きな役割を果たした福沢が、なぜ、構成員全体のことでなく(民主主義的でなく)、男(武士)の生き様の方(専制的な言論)を重要視するようなことになってしまったのでしょう。* 明治になって、「藩」という枠がなくなって、より広く、「国」「世界」へと忠誠の対象が拡大されました。「世界」を忠誠の対象するのがコスモポリタニズムですが、明治の初期にはその思潮が広まり、福沢もその影響を受けたのでしょう。冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で知られる『学問のすゝめ』の初編が発行されたのは、明治5年、福沢が37歳の時です。米国のジェファーソンの人権宣言にヒントを得たと推測されています。* 「勝vs福沢」、平和の観点に立つなら、勝負ありですね?*
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |