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宮本武蔵は二刀流の元祖だそうだ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」の「宮本無三四佐々木岸柳仕合之図」(筆:歌川芳虎)の一部を使用。出典:「宮本武蔵の生涯展(カタログ)」(永青文庫)
慶長17年4月13日(1612年。
宮本武蔵(推定28歳)と佐々木小次郎(
武蔵の死後9年(承応3年(1654年))に、武蔵の養子の宮本
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とあります。これが「巌流島の戦い」について記した最古の史料だそうです。武蔵は木刀で真剣の小次郎(巌流)に勝ったというのは、この記述からきているようです。最古の史料とはいえ、身内(養子)が作った石碑であって、美化や脚色も指摘されており、「一次史料」(書かれた人物が生きている間に作成された史料)でないことも考慮しなくてはなりません。 武蔵の死後27年(寛文12年(1672年))に編纂された『沼田家記』が、「巌流島の戦い」について書かれた2番目に古い記述だそうです。こちらは「巌流島の戦い」があった当時、細川氏の家臣で門司城の城代だった沼田延元と、その子の延之の代に編纂されており、 「巌流島の戦い」のあと、小次郎の弟子たちに追われていた武蔵を保護したのが延元なので、「小倉碑文」より客観性があるかもしれません。 それによると、武蔵が小次郎に勝ったまでは「小倉碑文」と同じですが、その後、気絶していた小次郎を、武蔵の弟子たちが打ち殺したとしています。弟子達を連れてこない約束だったのにです。それを聞いた小次郎の弟子たちが武蔵に復讐しようとしたため、武蔵は延元を頼ったのだと。我々が知る超カッコいい武蔵像(一人悠然と現れ、悠然と勝ち、悠然と去っていった)とはかけ離れていますね。 試合のあった島が、勝った武蔵の名でなく、負けた小次郎(巌流)の名を冠して「巌流島」と呼ばれたのは、そこに小次郎の墓が作られた(古川古松軒の『西遊雑記』より)からかもしれませんが、周囲が武蔵よりも小次郎に敬意と愛惜とを抱いていたからかもしれません。 武蔵の腕前の評価も分かれています。
満州事変がおこる昭和6年頃から、文学者間で、武蔵は名人だ、いや違うと、盛んに議論されました。直木三十五(昭和6年時点40歳)が、“武蔵=非名人”論を強く主張し、そのことを『武勇伝雑話』『上泉信綱と宮本武蔵』『武蔵の強さ』などに書き、また、座談会でも話し、議論を誘発しました。 武蔵が書いたとされる『五輪書』(写本しか残っていない)には、13歳から「巌流島の戦い」(武蔵28歳)までの15年間に60回以上勝負して一度も負けなかったと書かれていますが、直木に言わせると、誰を倒したか分からず、試合といっても相手が名人や達人の域の人だったのか分からない。有名な京都の
これに反論したのが菊池 寛(昭和6年時点43歳)ですが、菊池は「では、5回でも10回でも武蔵のように(真剣での)勝負をして勝った人が他にいるか?」と反論したそうです。ですが、これはいわば“相対的名人”論。他にそのような人が見当たらないので、武蔵を名人と考えてもいいのではないかというもので、説得力がなく、直木が指摘した、対戦相手に名人や達人がいたかに答えるものでもありませんでした。 直木は国の軍国路線に同調しましたが、吉岡一門の子どもまで斬った武蔵の残忍さは口を極めて批判しました(満州事変の日本陸軍の汚さを知ったら、直木とて国策に同意しなかったでしょう)。おそらく当時にも、武蔵の強さを美化する動きがあって、それに対して直木の「てやんでー」が炸裂したのでしょう。 武蔵が手ごわいのは、強いだけでないことです。剣術の奥義をまとめた『五輪書』を著したり、国の重要文化財に指定されるほどの水墨画を残すなど文化面での功績もあります。そういった“精神性”が感じられると、文化人といわれる人たちも弱いかもしれません。あと、一介の牢人(主家からの家禄を失った武士)から“名人・達人”の域にまでのし上がったサクセスストーリーの受けも良かったことでしょう。
菊池と同様、武蔵の肩を持ったのが吉川英治です。武蔵が吉岡一門の子どもまで斬ったことも、数いる吉岡一門を相手に武蔵は一人だったのでやむを得ないとし、それより、武蔵が、家庭的にも恵まれず、女性や友にも縁がなく、経歴上の困難さも克服して精神的に高い境地にまで達したことを評価しました。そんな吉川のことも直木は「文藝春秋」誌上で徹底的に批判しました。 その直木が、昭和9年、肺結核で死んでしまいます。すると、吉川は翌昭和10年より、「朝日新聞」で『宮本武蔵』(Amazon→ 青空文庫→)を連載し始めます。叱る人(直木)はもういないし、読者からも大いに喝采され、昭和14年まで連載されました。そして、その後は現在に到るまで、吉川の『宮本武蔵』を元にした小説・映画・ドラマ・漫画(「バガボンド」など)などが生み出され続け、 日本人の多くは、それが“本当の武蔵”と思っていることでしょう。 しかし、吉川の『宮本武蔵』は、史料的価値が低い『二天記』(武蔵の死後131年して(安永5年(1776年))武蔵を元祖とする「二天一流」の師範・豊田景英が著した武蔵の伝記)を原資料とした『宮本武蔵』(顕彰会本)を参考にしてます。また吉川が創作・改変した部分も多く、実像とはかけ離れています。作中の「お通」も「又八」もいなければ、沢庵和尚や本阿弥光悦との交流も全くの創作でしょうし、槍の奥蔵院や鎖鎌の宍戸某の根拠もないようです。吉川も自覚していて、作品が評価されればされるほど「苦痛にも似た自責」を感じたそうです。歴史小説がどうあるべきか考えさせられます。 吉川の「武蔵」は、試合の開始前に打ち込んだり、約束の時間にわざと遅れたり、と結構「汚い手」を使っています。吉川の『宮本武蔵』は二・二六事件の半年ほど前から、アジア・太平洋戦争開戦の2年前まで連載されましたが、この小説が、“「汚い手」も兵法のうち”という意識を国民に少なからず植えつけたかもしれません。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |