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このプロコフィエフの短編小説を早く紹介したくて、うずうずしていた。 なぜ、プロコフィエフ? と思われるかもしれないが、彼は革命で世情不安定の祖国ロシアを去り、創作に集中すべく米国を目指すが、その途上日本に立ち寄り、なんと当地(東京都大田区山王)にも10日間ほど滞在しているのだ。 そして、ここで、小説も書いた。ということは、彼もれっきとした 「馬込作家」!? プロコフィエフが当地で滞在したホテル「望翠楼」は、今はマンションになっている。そこの住人が、世界的名曲 「ロメオとジュリエット」を作曲した人が自分が住んでいるところにいたと知ったら、きっと驚くだろうなぁ。
当地に滞在したのは大正7年7月22日夜から 8月2日までで、日記にも、「大森のホテル」「驚くほど入念に耕された日本の畑」「大森の住まい」といった一節がある。 当地で書いたのは、 『罪深い情熱』と『 『彷徨える塔』 は、風変わりな天才考古学者の話。 彼はバビロンの塔(バベルの塔)について決定的な発見をする。 しかし、その時、パリでは大事件が発生。 何とエッフェル塔がのっしのっし歩き始めるといった奇怪事! 天才考古学者はその彷徨えるエッフェル塔を夢遊病者のようになって追跡していく。 バビロンの「塔」と、エッフェル「塔」は何か関係があるのか? そしてとうとう、アルプスを間近にしたスイスの町で、エッフェル塔と天才考古学者は対面・・・。米国行き途上の不安定な心象が投影されているかもしれない。 『罪深い情熱』 は、 町でもっとも名誉ある僧院長と、町でもっとも蔑まれている不潔な歯医者と、飲んだくれの落ちぶれ貴族が登場する。3人はいっしょにこそこそと密会。ある “罪深い情熱” に捕らわれているからなのだ・・・。アカデミックな音楽を斜に見るプロコフィエフの音楽観が垣間見える。 『彷徨える塔』 『罪深い情熱』 について
『彷徨える塔』 は、大正7年アメリカ行きを決意したプロコフィエフ(27歳)がモスクワを出てシベリア鉄道の客になった頃書き始め、当地(東京都大田区山王)で結末を書き、米国に向けて出航した船の上で完成させた短編小説。 『罪深い情熱』 は、同じく大正7年、東京で書き始め、当地(東京都大田区山王)でも筆を進めた短編小説。小説の構想はとても気に入ったようだが、なぜか未完。 プロコフィエフについて
5歳から作曲、実験的・冒険的音楽を書く 海外での15年間 帰国、実験主義からロマン派に回帰 昭和23年(57歳)、ソビエト共産党中央委員書記ジダーノフによる前衛芸術批判の対象となり、辱めを受ける。 翌昭和24年(58歳)から体調を崩し、言語症にもなった。 昭和27年(61歳)、「チェロ協奏曲第2番」をロストロポーヴィチに捧げる。同年、最後の交響曲、第7番を作曲。 昭和28年3月5日(61歳)、脳出血を起こし死去。スターリンの死の3時間前だった(2人は同じ日に死亡。なお、この年(昭和28年)、ショスタコーヴィッチ(47歳)が「交響曲第10番」を作曲している)。ノヴォ・デーヴィチー寺院のチャイコフスキーの墓のそばに葬られる。 ■ プロコフィエフ 評:
プロコフィエフと馬込文学圏米国への移住を決意したプロコフィエフ(27歳)は、大正7年5月7日モスクワを立ち、 5月31日に敦賀港(福井県)から経由地として日本に上陸。しかし、米国への適当な船便がなく、8月2日までの約2ヶ月間日本に留まる。 横浜に宿を取り、京都、琵琶湖、奈良、軽井沢、箱根などを漫遊。 資金を得るために帝国劇場で2度、横浜グランドホテルで1度、ピアノリサイタルを開く。 彼はピアノの名手でもあった。 手元にピアノがない不自由さからか、この頃さかんに短編小説を書いている。 参考文献● 『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子訳 平成21年発行) P.4、P.6、P.72、P.203-207 ●「プロコフィエフとバレエ《ロメオとジュリエット》」(小倉重夫) ※CD「プロコフィエフ バレエ音楽《ロメオとジュリエット》 小沢征爾指揮 ボストン交響楽団」(昭和61年録音) のライナーズノート 参考サイト●ウィキペディア/・プロコフィエフ(平成28年1月20日更新版)→ ・プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番」(平成25年11月13日更新版)→ ・ジダーノフ批判→ 謝辞・貴重な情報を、ブログ 「プロコフィエフの日本滞在日記(リンク→)」からたくさんいただきました。御礼申し上げます。 ※当ページの最終修正年月日 |