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プロコフィエフ『彷徨える塔』『罪深い情熱』を読む(馬込作家プロコフィエフ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このプロコフィエフの短編小説を早く紹介したくて、うずうずしていた。

なぜ、プロコフィエフ? と思われるかもしれないが、彼は革命で世情不安定の祖国ロシアを去り、創作に集中すべく米国を目指すが、その途上日本に立ち寄り、なんと当地(東京都大田区山王)にも10日間ほど滞在しているのだ。 そして、ここで、小説も書いた。ということは、彼もれっきとした 「馬込作家」!?

プロコフィエフが当地で滞在したホテル「望翠楼」は、今はマンションになっている。そこの住人が、世界的名曲 「ロメオとジュリエット」を作曲した人が自分が住んでいるところにいたと知ったら、きっと驚くだろうなぁ。

プロコフィエフが泊まった「望翠楼ホテル」があったあたり(東京都大田区山王三丁目34-13 map→)
望翠楼ホテル」があったあたり(東京都大田区山王三丁目34-13 map→

当地に滞在したのは大正7年7月22日夜から 8月2日までで、日記にも、「大森のホテル」「驚くほど入念に耕された日本の畑」「大森の住まい」といった一節がある。

当地で書いたのは、 『罪深い情熱』と『彷徨さまよ える塔』という2篇のようだ。

『彷徨える塔』 は、風変わりな天才考古学者の話。 彼はバビロンの塔(バベルの塔)について決定的な発見をする。 しかし、その時、パリでは大事件が発生。 何とエッフェル塔がのっしのっし歩き始めるといった奇怪事! 天才考古学者はその彷徨えるエッフェル塔を夢遊病者のようになって追跡していく。 バビロンの「塔」と、エッフェル「塔」は何か関係があるのか? そしてとうとう、アルプスを間近にしたスイスの町で、エッフェル塔と天才考古学者は対面・・・。米国行き途上の不安定な心象が投影されているかもしれない。

『罪深い情熱』 は、 町でもっとも名誉ある僧院長と、町でもっとも蔑まれている不潔な歯医者と、飲んだくれの落ちぶれ貴族が登場する。3人はいっしょにこそこそと密会。ある “罪深い情熱” に捕らわれているからなのだ・・・。アカデミックな音楽を斜に見るプロコフィエフの音楽観が垣間見える。


『彷徨える塔』 『罪深い情熱』 について

馬込文学圏で筆を進めた 『彷徨える塔』 と 『罪深い情熱』 も収められている
プロコフィエフ短編集 (群像社ライブラリー)』。 『彷徨える塔』 『罪深い情熱』のほか、『いまわしい犬』 『毒キノコのお話』 など全11編所収。日本滞在時の日記もあり

『彷徨える塔』 は、大正7年アメリカ行きを決意したプロコフィエフ(27歳)がモスクワを出てシベリア鉄道の客になった頃書き始め、当地(東京都大田区山王)で結末を書き、米国に向けて出航した船の上で完成させた短編小説。

『罪深い情熱』 は、同じく大正7年、東京で書き始め、当地(東京都大田区山王)でも筆を進めた短編小説。小説の構想はとても気に入ったようだが、なぜか未完。


プロコフィエフについて

来日当時のプロコフィエフ
来日した頃のプロコフィエフ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/プロコフィエフ→(平成28年1月20日更新版)

5歳から作曲、実験的・冒険的音楽を書く
明治24年(1891年)4月23日、ウクライナの農場管理人の家に生まれる。 家庭で教育された。母のピアノに強い関心を示す。5歳頃から作曲を始め、9歳で自作の台本を元にしたオペラ「巨人」を作曲。この頃から、言葉と音楽は不可分なものだったのだろうか。サンクトペテルブルク音楽院でリムスキー・コルサコフなどから作曲とピアノを学ぶが、アカデミックな音楽には興味を持たず、スクリャービンなどの前衛的な音楽から多くを吸収した。在学中の大正元年〜2年(21〜22歳)、超絶的技巧を凝らした斬新な「ピアノ協奏曲第1番・第2番」を自らのピアノ独奏で初演。絶賛と誹謗、相半ばの大反響がある。

海外での15年間
大正7年(27歳)、交響曲第一番 「古典」 を初演後、革命時のロシアを後にして、日本を経由して米国にわたり大正11年(31歳)まで拠点とする。その後、ドイツのバイエルンをへて、十数年間パリで活躍。米国で知り合ったリーナと結婚し子も生まれたが、のちに離婚。実験的で複雑な自作に疑問を持つようになり、シンプルな表現を模索するようになる。

帰国、実験主義からロマン派に回帰
昭和8年(42歳)、15年ぶりに祖国に帰り、モスクワに定住する。定住後の第一作は映画音楽の「キージェ中尉」。バレエ音楽 「ロメオとジュリエット」 で、実験主義からロマン派に回帰したとされる(昭和11年。45歳)。交響的物語「ピーターと狼」も同年作曲された。台本も自分で書いている。

昭和23年(57歳)、ソビエト共産党中央委員書記ジダーノフによる前衛芸術批判の対象となり、辱めを受ける。 翌昭和24年(58歳)から体調を崩し、言語症にもなった。

昭和27年(61歳)、「チェロ協奏曲第2番」をロストロポーヴィチに捧げる。同年、最後の交響曲、第7番を作曲。

昭和28年3月5日(61歳)、脳出血を起こし死去。スターリンの死の3時間前だった(2人は同じ日に死亡。なお、この年(昭和28年)、ショスタコーヴィッチ(47歳)が「交響曲第10番」を作曲している)。ノヴォ・デーヴィチー寺院のチャイコフスキーの墓のそばに葬られる。

プロコフィエフ 評:
「ショスタコーヴィチと並んで現代ソヴィエト作曲家の最高峰」(小倉重夫)

「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」。ピアノ:ユジャ・ワン、指揮:ドゥダメル 「プロコフィエフ:バレエ「ロメオとジュリエット」全曲」。指揮: 小澤征爾、演奏: ボストン交響楽団
「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」。ピアノ:ユジャ・ワン、指揮:ドゥダメル プロコフィエフ:バレエ「ロメオとジュリエット」全曲」。指揮: 小澤征爾、演奏: ボストン交響楽団
『プロコフィエフ (作曲家別名曲解説ライブラリー)』(音楽之友社) 井上頼豊 『プロコフィエフ (大音楽家・人と作品 (31))』
プロコフィエフ (作曲家別名曲解説ライブラリー)』(音楽之友社) 井上頼豊 『プロコフィエフ (大音楽家・人と作品 (31))』

プロコフィエフと馬込文学圏

米国への移住を決意したプロコフィエフ(27歳)は、大正7年5月7日モスクワを立ち、 5月31日に敦賀港(福井県)から経由地として日本に上陸。しかし、米国への適当な船便がなく、8月2日までの約2ヶ月間日本に留まる。 横浜に宿を取り、京都、琵琶湖、奈良、軽井沢、箱根などを漫遊。

資金を得るために帝国劇場で2度、横浜グランドホテルで1度、ピアノリサイタルを開く。 彼はピアノの名手でもあった。

7月22日夜、宿泊料の高い横浜グランドホテルから、当地の「望翠楼ホテル」に移動してきて、 8月2日までの10泊11日滞在。 当地の静かさが気に入ったようだ。近く(山王一丁目)に住む音楽評論家の大田黒元雄(25歳)と毎日のように行き来する。 大田黒がプロコフィエフに原稿を依頼したり、プロコフィエフが大田黒邸でピアノを弾くということもあった。

手元にピアノがない不自由さからか、この頃さかんに短編小説を書いている。

作家別馬込文学圏地図 「プロコフィエフ」→


参考文献

● 『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子訳 平成21年発行) P.4、P.6、P.72、P.203-207 ●「プロコフィエフとバレエ《ロメオとジュリエット》」(小倉重夫) ※CD「プロコフィエフ バレエ音楽《ロメオとジュリエット》 小沢征爾指揮 ボストン交響楽団」(昭和61年録音) のライナーズノート


参考サイト

●ウィキペディア/・プロコフィエフ(平成28年1月20日更新版)→ ・プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番」(平成25年11月13日更新版)→ ・ジダーノフ批判→


謝辞

・貴重な情報を、ブログ 「プロコフィエフの日本滞在日記(リンク→)」からたくさんいただきました。御礼申し上げます。

※当ページの最終修正年月日
2019.9.21

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