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大正12年7月6日(1923年。 葉山嘉樹(29歳)が、小説『淫売婦』の冒頭に、以下のように書いています。 この作は、名古屋刑務所長、佐藤乙二氏の、好意によって産れえたことを付記す。── 一九二三、七、六 ── 葉山も間宮同様、治安維持法違反で収監されますが、獄内での原稿用紙・万年筆の使用が許可され、書きまくることができました。鬼のような特高警察とは違って、刑務所関係の人は、「一労働者としての共感」があったのか、社会主義や共産主義や労働運動に一定の理解を持つ人も少なからずいたのでしょう。獄中の堺 利彦に感化されて看守を辞めて売文社に入った岡野辰之助というような人もいれば、「横浜事件 wik→」で収監された人たちを密かに獄中で会わせ、差し入れまでしてくれるような看守もいました。 昭和46年、 染谷孝哉(53歳)が出した『大田文学地図』には、作品の「あとがき」にはっきりと亡き母親に捧げると書かれています。 弁天池(東京都大田区山王四丁目)から木原山に上る細い階段の右手あったアパート「住吉荘」で、母親と二人で暮らしていた染谷は、昭和45年にその母親を亡くします。一人残された染谷の気を引き立てようと、染谷も常連だった泡盛屋 「河童亭」(「きらぼし銀行(旧・都民銀行)大森支店」(東京都大田区中央一丁目7-1 Map→)の駐車場あたりあった)の主人かのう・すすむが、染谷が昭和30年頃(37歳頃)から日本文学協会京浜支部ニュース 「南風(はえ)」 に連載した当地の文学案内をまとめて出版することを提案、 「大田文学地図刊行会」が発足させました。参加したのは 「河童亭」の常連を中心に、城戸 昇、久保田正文、添田知道、関口良雄、
『大田文学地図』の「あとがき」を、染谷は、多くの善意に感謝しつつも、次のように結んでいます。 ・・・おわりに、恐縮であるが私事について語ることをゆるされたい。それは、永い間なりふりかまわずに貧乏世帯を切りまわし、私の怠惰無頼な生活をいつもあたたかいまなざしと、寛容なこころでつつみこんでくれていた母についてである。 この母に甘えながら小著は生み育てられてきたといえるだろう。いわば陰の力となって支えてきたのである。いまの喜びをともにわかちあいたい、その母はすでに亡い。 この著書をいまは亡き母に捧げたいと思う。 一周忌の日 苦難のときの小島政二郎を救った一書『ジャン・クリストフ』は、ロマン・ローラン(38~46歳)が明治37年から明治45年にかけて書きつないだ「大河小説」の走りのような小説です。この10巻もの書(岩波文庫では分厚いのが4冊)の冒頭にはこうあります。 いずれの国の人たるを問わず、 ロマン・ローラン 音楽評論家の吉田秀和のライフワーク『永遠の故郷』には、個人にあてて書かれたものが複数収録されています。第1巻目の「夜」の12のエッセイのうちの8つが、個人に(1つは夫妻に)あてられています(捧げられています)。「これだけ深い音楽と言葉の話」を捧げえる知り合いがこんなにいることに驚かされます。
力を誇示しようとする人間(「バベルの塔」がその象徴)が、異なる言語を使うようになって分断されるといった旧約聖書のエピソードを元にした作品「バベル」。坂本龍一の「美貌の青空」が映画の最後を飾った後、イニャリトゥ監督は以下の献辞を記しています。 To my children, 「最も暗い夜に、最も輝ける光」という言葉を添え、作品を娘と息子に捧げています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献:
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