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「大倉陶園」のシンボル、ブルーローズ。日野
大正8年5月15日(1919年。
当地(大田区立
創業したのは、大倉 孫兵衞は日本初の民間貿易商社「森村組」の創設に参画、最初は主に米国の陶磁器の買い付けをしていましたが、後に欧米のより高品質な陶磁器を作る夢を持ちます。利益のためにではなく、ともかく、最高のモノを作りたいとの思いでした。そして、当地に工場を構え、2年後に満足のいく陶磁器が完成。ところが、孫兵衞は大正10年(78歳)に死去、ぎりぎり完成品を見ることができませんでした。 「大倉陶園」の陶磁器は、昭和12年のパリ万博で名誉大賞を受賞、皇室にも納品されるようになり、現在に至っています。
「大倉陶園」の敷地は、一部、隣の「黒澤商店 ・タイプライター工場村(以下、「黒澤商店」)」から一部譲り受けたようです。「黒澤商店」も理想を追求した企業でした。
創業者の黒澤 黒澤は、 10歳から薬問屋で働いていましたが、18歳のとき、番頭昇格への道を捨て、単身渡米。住んだ家の主人がタイプライター会社の経営者だったことから、タイプライターに興味を持ち、和文タイプライターを試作、それに成功します。明治34年(26歳)に帰国し、銀座に日本初のタイプライター会社・「黒澤商店」を創立。日露戦争時の極秘文書の作成を皮切りにタイプライターの需要が高まるにつれ、業績を伸ばしていきます(太平洋戦争後、長者番付1位になることも)。 当地にできた「工場村」には、従業員と家族のための住まい(庭も充実 Photo→)のほか、快適に過ごせるよう、食堂、浴場、給水塔(Photo→)、菜園、公園、プール(Photo→)、テニスコート、幼稚園、小学校なども作られ、単なる「工場村」ではなく、「黒澤村」、「
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染色工芸家の
明治28年、静岡県随一の呉服屋に生まれた芹沢でしたが、(旧制)中学卒業をまじかにした大正2年(17歳)、隣家からの火で家が全焼、実家の家運が一挙に傾きました。画家を志望していましたが(岸田劉生ばりの写実的な絵が残っている)、絵で食っていくことは難しく、断念、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の工業図案科で学びます。卒業後は、図案指導に携わったり、「文金図案社」なる組織を作って広告・看板・店舗のディスプレイのデザインを手がけたりしていました。 その後次第に、自分がデザインした物を直接生み出したい欲求を持つようになって、自分がデザインした編物・刺繍・絞染などを手作りするようになります。展覧会に出品するようになって、審査員の山本
また、その頃、芹沢に大きな出会いがありました。柳 宗悦との出会いです。芹沢は、柳の『工芸の道』を読んで、雷に打たれるような感銘を受け、一生の道を定めました。 ・・・美が自然から発する時、美が民衆に交わる時、そうしてそれが日常の友となる時、それを正しい時代であると誰が云い得ないであろう。私達は過去に於いてそれがあった事を示し、未来に於いてもあり得る事を示す・・・(柳 宗悦『日本民藝美術館設立趣意書』より) 柳らの民藝運動との出会いです。彼らが見出した「地方の人々が日々の暮らしで用いる手作りの用具の美」は、芹沢が求めていたにも関わらず把握しきれずにいたものだったのです。柳らの設立した「日本民藝館」(東京都目黒区駒場四丁目3-33 Map→ Site→)で、芹沢は沖縄の紅型風呂敷とも出会いました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |