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昭和30年4月29日(1955年。ザイル製作会社・東京製綱の工場(愛知県
4ヶ月ほど前の同年1月2日、北アルプス前穂高岳東壁で、保証書付きの新品ナイロンザイルが岩角で簡単に切れ、一名死亡するという事故がありました。ナイロンザイルは「従来の麻ザイルより軽い上に数倍の強度がある(1トン以上の重さに耐える)」というふれこみで販売されましたが、岩角では従来の麻ザイルよりも極めて切れやすかったのです。先鋭的な登山を目指した三重県鈴鹿の山岳会「岩稜会」は、その“高性能”を信じて真っ先に高価なナイロンザイルを取り入れ、そして、この事故となりました。* 事故後、ナイロンザイルの販売者から、遭難者側のザイルの扱い方に問題があったとする見解が示され、遭難者を出した「岩稜会」では、独自に実験(「蒲郡実験」と区別するために「岩稜会事前実験」と呼ぶことにする)を行います。そして、「(ナイロンザイルの)岩角弱点」をはっきりと確認。ところがその実験結果に対し、販売者側は「肉親がやった実験は信用できない」としました。「岩稜会」の会長・石岡繁雄(37歳)は遭難死した若山五朗(19歳)の実兄でした。そうした経緯から公開実験「蒲郡実験」が行われることになります。* 結論からいうと、「蒲郡実験」では、「岩角弱点」によってナイロンザイルは切れませんでした。実験を主導したのは日本山岳会関西支部長の篠田軍治(当時、大阪大学工学部教授)です。そして、参観したマスコミはそれを疑うことなく報道しました。* 雑誌「山と渓谷」(昭和30年7月号)には、ナイロンザイルの販売者の言葉で、「(「蒲郡実験」で)あらゆる面が判明しました」「(今回の遭難は)誤れる使用によるザイル切断」「指導者があまりにも、ザイル知識を知らなすぎた」と掲載されました。「(ナイロンザイルの)岩角弱点」には言及されず、今回の遭難は、ナイロンザイルの製造者・販売者には説明責任を含めなんら問題はなく、あくまでも遭難者の過失によるものとしたのです。 「岩稜会」側は遭難をナイロンザイルのせいにしたとして、世間からも親族からも非難されるようになりました。* しかし、その後も「岩稜会」は泣き寝入りしませんでした。「蒲郡実験」から3ヶ月ほどたった同年8月6日、数名でナイロンザイル切断地点まで岩壁を登り、残されたナイロンザイルの繊維を採取、また、ナイロンザイルが擦れて切断の原因になったと思われる岩角を石膏で型取り持ち帰りました。そして、切断現場の状況を可能な限り再現して再度実験します(「岩稜会事後実験」と呼ぶことにする)。落下させる重りの重さは遭難者・若山の生前に記録された最後の体重よりもさらに4kgほど軽くした60kg(重りが重くて切れたとする反論を封じるため)、落下距離も50cmほど。結果は、*ナイロンザイルは呆気なく切れました。墜落というほどでなくても、体重をかけたくらいでもナイロンザイルが切れることが分かりました。さらに少しでも擦れるようなことがあれば、さらに切れやすくなります。ナイロンザイルは岩角ではかくも弱いものなのです。* 「蒲郡実験」を見学した加藤富雄(三重県山岳連盟理事。若山の友人)が同年7月20日に発表した「加藤レポート」も衝撃的な内容です。実は、 「蒲郡実験」前に篠田は事前に実験しており(「篠田事前実験」と呼ぶことにする)、ナイロンザイルが従来の麻のザイルよりも岩角において極めて弱いという結果が出ていたのです。岩角においては、8mmのナイロンザイルは12mm麻ザイルの1/20の強度しか出ませんでした。そんなナイロンザイルが「蒲郡実験」で切れなかったのは、実験用の岩角に参観者に気づかれないほどの丸み(1mmほどの斜角)がつけられていたからと発表。これだけの丸みで、結果が雲泥の差となります。当然、自然の岩には、そんな意図的な丸みなどありません。つまりは、ナイロンザイルの利点のみを強調してきた、企業、販売サイド、識者の責任が問われないよう、実験に意図的な細工されたということでしょうか?* 「岩稜会」は「岩稜会事後実験」の結果を持って「蒲郡実験」を主導した篠田に面会。篠田も実験結果を認め、「蒲郡実験」で広まった「ナイロンザイルの安全性に問題ない。ザイルが切れたのは登山者のミス」という誤った結論を訂正することも承諾。ところが、訂正はなされず、それのみか、篠田はその後、「蒲郡実験」の正当性を補強する論文を発表します。「中日新聞」「岳人」「毎日グラフ」「山と渓谷」「化学」「繊維機械学会誌」などが、「蒲郡実験」を追認する記事を書き、 「岩稜会」は孤立無援の窮地に追い込まれていきました。 篠田らから誠意ある対応が期待できないことが明らかになり、誤解が広まっていく中、「岩稜会」は、翌昭和31年篠田を名誉毀損で訴えます。* また、「岩稜会」は、事件のあらましとその問題的を書いた310頁もの報告書「ナイロン・ザイル事件」を作成。わら半紙に謄写版で150部印刷して、知人、新聞社、雑誌社、山岳関係者に送付して理解を求めていきます。この報告書が石岡の知人の安川茂雄にわたり、安川から井上 靖 にわたって小説『氷壁』が書かれました。告訴後、起訴か不起訴か明らかになる前の同年(昭和31年)11月24日から「朝日新聞」に連載され、人々の事件への関心と理解を深めることとなりました。* 訴訟自体は、名古屋地検(担当:亀井検事)から大阪地検(担当:斎藤検事)に回されて、さらに年を重ねた昭和32年7月22日、不起訴となります。 検察は、東京製綱サイド、篠田、「蒲郡実験」で使用した岩角を加工した石材商からは調書を取りましたが、「岩稜会」からは聞き取りをしていません。* 学者も、マスコミも、企業も、一部の有名登山家(山崎安治や近藤 等など)も「ナイロンザイルに問題なし」としましたが(「毎日新聞」は「岩稜会事後実験」を報道し警鐘を鳴らした)、その後もナイロンザイルの切断事故が続き、昭和29年から昭和55年の間に21名が命を落としています。登山者の間では、口コミで、8mmロープは危険で使えないというのが“常識”となり、穂高岳、谷川岳、剣岳といった岩場での登攀では9mmロープを2本伸ばしていく「ダブルロープ」が一般的になっていきます。仮に1本が切れてももう1本で墜落を止められるようにするためです。* 今やブームのフリークライミングですが、自然の岩場を登る場合は注意が必要。岩の鋭角で激しく擦れれば、今や一般的な11mmロープであっても切れる可能性が十分あると思います。* ちなみに「不正」のあった可能性のある篠田氏は、当時日本山岳会関西支部長であり、現在、日本山岳会では、会員からの批判の声があるにも関わらず名誉会員にしています。* 裁判の結果がどうであれ、企業がどう言っても、学者がどう言っても、マスコミがどう伝えても、ましてや“ロボット芸能人”がどう言おうが、「真実」が他のところにあることがあることをこの「ナイロンザイル事件」が示唆しています。数多の岳人はもちろんのこと、その他の人にも知ってもらいたいです。あと、「真実」に向けて現在も果敢に戦っている人たちがいることも。*
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 謝辞: ※当ページの最終修正年月日 |