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切れたナイロンザイル(井上靖の『氷壁』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井上靖

昭和30年1月2日(1955年。 井上靖(47歳)の『氷壁』の題材となる遭難が起きました。

三重県鈴鹿の山岳会「岩稜会」は、年末から、冬期合宿で、穂高の 奥又白 おくまたしろ (穂高の登山拠点 map→)入りし、前穂高岳の岩場で冬季登攀記録がないルートの冬季初登を狙っていました。しかし、その東壁のAフェースで事故が起きます。

登攀メンバー3人のうちの若山五朗(三重大学1年)が、岩壁の最上部附近で、頭上に新品のナイロンザイルをかけたあと50センチほどスリップ。ナイロンザイルが彼の滑落を止めるはずでしたが、ナイロンザイルは岩角でこすれただけで切れ、若山は墜落、虚空に消え失せます。

『氷壁』では、主人公の魚津恭太うおず・きょうたとザイル・パートナーの小坂乙彦おとひこ が登る設定で、次のように描いています。

・・・替つて、小坂はすぐ登り始めた。二人は言葉を交はす気持の余裕はなかつた。苦しい危険な作業が二人から言葉を り上げてゐた。
 魚津はピッケルを岩の間に立てたまま、友の姿に眼をやつてゐた。風は斜面の左手から吹きつけて、絶えず雪煙りが下方の空間を埋めてゐる。時々落雪が不気味な音をたてて魚津の足場に散つた。
 その時小坂は魚津より五メートル程斜め横の壁に取りついて、ザイルを頭上に突き出してゐる岩に掛ける作業に従事してゐた。ふしぎにその小坂乙彦の姿は魚津には一枚の絵のやうにくつきりと澄んで見えた。魚津を取り巻いてゐるわづかの空間だけが、きれいに洗ひぬぐはれ、あたかもガラス越しにでも見るやうに、岩も、雪も、小坂の体も、微かな冷たい光沢を持つて見えた。
 事件はこの時起つたのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた。
 魚津はそんな小坂に眼を当てたまま、ピッケルにしがみついた。その時、小坂の体は、何ものかの大きな力に作用されたやうに岩壁の垂直の面から離れた。そして落下する一個の物体となつて、雪煙の海の中へ落ちて行つた。
 魚津はピッケルにしがみついてゐた。そして、小坂乙彦の体が彼の視野のどこにもないと気付いた時、魚津は初めて、事件の本当の意味を知つた。小坂は落ちたのだ。
 魚津は、無我夢中で、
「コ、サ、カ」
 と、最後のカの音を長く引いて、ありつたけの声を振りしぼつて叫んだ。そして再び、同じ絶叫を繰り返さうとして、それをやめた。小坂乙彦の名をいくら大声で呼んでみても、それがどうなるものでもないことに気付いたからである。
 魚津は足許の下の方に視線を落した。相変らず風が岩壁の雪をさらつて、それを吹き上げてをり、視野は全く利かなかつた。もつとも雪煙がそこを閉ざしてゐなくても、この前ピッケルを立てた地点から下方の岩は、そつくり大きく削りとられてゐて、その下への見透しは利かないはずであつた。・・・(井上 靖『氷壁』より)

二人は前夜、吹雪の岩壁の中でビバーク(野営)しており、疲労は極点に達していました。そんな状況下で起きたショッキングな出来事に、最初事態が飲み込めない、そんな感じがよく表現されています。実際の遭難でも、前日(1月1日)に登り切れず、頂上直下(頂上にあと40mの地点)でビバークしています。事故は朝、登攀再開直後に起きました。若山の墜落後、残りの二人は精神的ショックからか、登攀不能となり、翌日(3日)、駆けつけた「岩稜会」のメンバーによって、頂上に引き揚げられ救出されました。

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その後、この遭難は、「ナイロンザイル事件」として大きな社会問題となります。

彼らがその頃出回り始めたナイロンザイルを使用していたからです。ナイロンザイルは、従来の麻ザイルよりも細くても性能が優れ、「1トンの重さに耐える」「捕鯨にも使えるという」「麻11㎜に対してナイロン8㎜の細いロープでも3倍の強度がある」との触れ込みで販売されていたのです。彼らは、その高価な新製品をいち早く取り入れて登山に臨んだのでした。しかし、それが人一人の50センチほどの落下の衝撃で、あっけなく切れてしまったのです。

同年(昭和30年)4月29日、東京製綱の蒲郡工場で、「ナイロンザイルの脆弱性についての実験」(蒲郡実験)が行われ、同じような状況下でザイルは切れないという結果が出ます。つまりは、ザイルが切れたのは「登山者のザイル操作上のミス」と印象付けるものでした。ところが、この実験で、ザイル製造者側(繊維作製:東洋レーヨン、ザイル作製:東京製綱)がザイルが切れないように細工したとの疑惑が持ち上がります。翌昭和31年、遭難時の登攀メンバー3人のうちの一人・石原國利(25歳)が、実験を指導した日本山岳会関西支部長で大阪大学教授の篠田軍治を告訴しました。

井上(49歳)の『氷壁』 は、告訴がなされた昭和31年6月の5ヶ月後の11月から「朝日新聞」に連載されます。告訴されても起訴されるか否かまだ分からない段階での連載であり、井上としても、掲載紙「朝日新聞」としても冒険だったと思います。それだけに、緊張感を持って読まれ、話題にもなります。リアルタイムに書き下ろされていく新聞小説ですから、時事問題を取り入れない手はありません。明治時代から新聞小説には時事問題の“解説”の側面がありました。

『氷壁』 は翌々年(昭和32年)には単行本化し、翌々々年(昭和33年)には映画化。どちらもヒットして、今に続く登山ブームの一つのきっかけになりました。昭和に山を始めた多く(ほとんど?)が『氷壁』を読んだでしょう。もちろんこれから山を始めようという人にもオススメです。

『氷壁』の主人公・魚津恭太は、上記の遭難事件の当事者の他に、天才登山家・松濤 明もモデルになっているようです。

なお、長野県の大町山岳博物館Web Site→には、「ナイロンザイル事件」の問題のナイロンザイルをはじめとする遺品や、松濤 明のピッケルや遺書が書かれた手帳が展示されているとのこと。

井上靖『氷壁 (新潮文庫) 』 「氷壁 [DVD]」。 原作:井上 靖。監督:増村保造。魚津を菅原謙二、小坂を川崎敬三、魚津を慕う小坂の妹・かおるを野添ひとみ、ナイロンザイル実験に携わる八代を上原 謙、魚津が密かに思いをよせる八代夫人を山本富士子が演じる。待望のDVD化!
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NHKドラマ「氷壁 [DVD]」。井上靖の『氷壁』をもとに作られているようだが、メロドラマっぽくて、原作のストイシズムは感じられない。原発推進広告に多く出られている玉木 宏氏や石坂浩二氏と、脱原発に向けて頑張っている山本太郎氏が共演しているのが興味深い。『氷壁』も「大企業の欺瞞」を追究する話なので 松濤明『新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫) 』。井上靖の『氷壁』の主人公・魚津恭太のもう一人のモデルとされる天才登山家・松濤明の手記とエッセイ
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安川茂雄『青い星』。こちらも松濤 明をモデルにした小説。著者の登山史研究家・安川は当地(東京都大田区上池台三丁目)に住んでいた。東京都大田区立図書館が所蔵 平塚晶人『ふたりのアキラ (ヤマケイ文庫) 』。松濤明と松濤を慕った女性登山家・芳田美枝子の物語。芳田は、井上靖の小説『氷壁』の「かをる」のモデルと思われる
安川茂雄『青い星』。こちらも松濤 明をモデルにした小説。著者の登山史研究家・安川は当地(東京都大田区上池台三丁目)に住んでいた。東京都大田区立図書館が所蔵 平塚晶人『ふたりのアキラ (ヤマケイ文庫) 』。松濤 明松濤を慕った女性登山家・芳田美枝子の物語。芳田は、井上 靖の小説『氷壁』の「かをる」のモデルと思われる

■ 馬込文学マラソン:
井上 靖の 『氷壁』 を読む→

■ 参考文献:
●『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』(石岡繁雄 あるむ 平成21年発行)序~P.16  ●「松濤 明と芳田美枝子 『風雪のビヴァーク』(愛の旅人)」(今田幸伸)※「朝日新聞」(平成19年8月18日掲載) ●『大田文学地図 2(染谷孝哉遺稿)』(城戸 昇編 文学同人眼の会叢書)P.123 ●『原発プロパガンダ(岩波新書)』(本間 龍 平成28年発行)P.126

■ 参考サイト:
・ ウィキペディア/●ナイロンザイル事件(平成24年3月7日更新版)→ ●石岡繁雄(平成26年1月21日更新版)→ ●製造物責任法(平成26年8月12日更新版)→

北アルプスの風/街角散歩/大町博物館巡り/大町山岳博物館→

日本山岳会(JAC)岐阜支部ホームページ/山岳講演会「ナイロンザイル事件」(尾上 昇)→

※当ページの最終修正年月日
2019.1.2

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