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関脇時代の力道山 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/力道山(令和4年10月22日更新版)→
昭和26年10月28日(1951年。 力道山(26歳)が、初めてプロレス(プロ・レスリング)のリングに上がりました。サンフランシスコ平和条約調印(9月8日)のおよそ1ヶ月半後です。日本の主権が一部回復しますが(発効は翌昭和27年の4月28日。沖縄・奄美諸島・小笠原諸島は変わらず米国の支配下)、まだまだ。そんな時、力道山による“反撃”が始まります。 その名から連想されるように、力道山は前年の昭和25年までは大相撲の力士でした。太平洋戦争開戦の前年(昭和15年)からの10年間、土俵に上ってきたのです。
そんな力道山が、殊勲賞受賞の2年後の昭和25年の秋場所前、突然、自らのマゲを包丁で切り落としました。 何があったのでしょう? 角界に入った頃からマゲを落とすまでの力道山を、村松友視さんが 、次のように書いています。 ・・・たまたまこの相撲大会を見物に来ていた
半ば強制的に連れてこられた力道山の初土俵は昭和15年、まだ16歳の時です。10年は頑張ったのです。引退する力士は、ふつう親方などに鋏を入れてもらうものなのでしょうが、日本人から差別・蔑視されてきた力道山はその方法を取りませんでした。力道山は自らの才覚と勇気とで、大相撲という“権威”から離脱します。 プロレスラーへの転身を決意した力道山は、翌昭和27年2月3日羽田空港から飛行機でハワイに渡ります。2週間後の2月17日には初試合をし、ウルフという米国選手を張り手、体当たり、すくい投げで叩きのめしました。その後、米国の太平洋岸などでも戦い、300戦中295勝。米国のアマチュア・ヘヴィ級チャンピオンのジョージ・ケッツ、元ヘヴィ級チャンピオンのサンド・ザヴォにも勝利しました。 1年後の昭和28年3月6日(29歳)、米国のプロ・レスリング協会から日本におけるプロレス興行の全権を委任されて帰国。3ヶ月後には東京日本橋に「ジャパン・プロ・レスリング・アソシエーション・リキドーザン」の看板を掲げ、日本でのプロレス普及の 帰国1年後の昭和29年2月19日からの初興行14連戦は、前年(昭和28年)に始まったテレビ放送と相まって、プロレス人気を爆発的なものとします。街頭テレビには力道山見たさの聴衆が群がりました。その時、力道山(29歳)は、 上の映像を見ると、力道山はカッコいいですが、力道山と組んだ木村政彦(36歳)はシャープ兄弟に打ちのめされて力道山に救出される、いわば力道山の「引き立て役」。15年間不敗で「史上最強」と謳われた柔術家だった木村は、この屈辱に耐えられなくなったのでしょうか。同年(昭和29年)末、木村対力道山の「昭和の巌流島」の対戦となります。朝鮮で生まれた力道山が「日本人のヒーロー」であっては不都合な人たちが、木村をけしかけたのでしょうか? ------------------------------------------------------ 角界に限らず、マスコミや教育の影響もあってか、信じがたいことに、いまだに、自分たちの民族・国が他の民族や国より優れている(つまりは他の民族・国は自分たちより劣っている)と本気で信じ、それを愛国心の発露と勘違いしている人たちがいるようです。そういった無知からくる差別意識がヘイトスピーチやヘイトクライムに発展しますが、それを大多数の人たちが「自分には関係ない」「激昂するのはカッコ悪い」と見て見ぬ振りをしています。差別に抗議する人たちは孤立し、心なきアホ達の モンゴルの首都ウランバートル(map→)出身の力士・ 「労働基準法」第三条には以下のようにあります。 労働者の国籍、信条または社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取り扱いをしてはならない
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |