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鉄道開通の前年(明治4年)に英国から輸入された機関車5種10両のうちの1両「10号機関車(110形)」(ヨークシャー・エンジン社製)を“走らせて”みた。「10号機関車」は10両のうちで最も不評だったが、大正12年に廃車されるまでの50年以上使われた。現在、「旧横ギャラリー(旧横浜鉄道歴史展示)」(横浜市中区桜木町一丁目1-93 シァル桜木町アネックス Map→ Site→)に修復され展示されている。110形は1両しか輸入されなかったので、現物はここでしか見られない ●写真1(斜め前方より)→ ●写真2(先端部アップ)→ ●写真3(中等客車 ※レプリカ)→ 明治5年9月12日(1872年。
新橋 開通式には、前年に輸入した10両のうち最も性能がいいとされた「2〜5号機関車(160型)」(4両輸入された Photo→)のうち、「2号機関車」(式典列車)と「5号機関車」(先行機関車)が使用されました。 「2号機関車」を運転したのが英国人のトーマス・ハートとクリスティ、以下の客車には、1〜2号車に近衛護兵、3号車から9号車までに明治天皇、
翌日より鉄道の営業が始まり、機関車と停車場の話題は全国津々浦々にまで広がり、遠方から見物にくる人も相当いたようです。機関車は多くの人の予想をはるかに超えるもので、機関車を見て、町が動いているように感じた人もいたようです(家々くらいのものが移動しているので)。 当初、新橋から1日に9回発車し(午前8時〜午後6時)、品川、川崎、鶴見、神奈川の途中の4駅にも停車、所要時間は53分でした(現在では約半分の28分ほど)。 客車には等級があって賃金が変わり、新橋から横浜までだと、上等が1両2朱、中等が3分、下等が1分2朱でした。前年(明治4年)に貨幣条例が出て1両が1円になりましたが、まだ、三貨制度(両、分(1両の1/4)、朱(1分の1/4))で記されています。1両を現在の1万円ほどとすると、上等が1万1250円、中等が7500円、下等が3750円でバカ高いですが、それでも、当時は、「その
加える熱によって蒸気が膨張・収縮するのを利用した仕組みは、紀元前後からありました。アレクサンドリア(エジプト。Map→)で活躍したヘロンは、蒸気の膨張・収縮を利用して重い神殿の扉が自動的に開閉する仕組みを考えました。 時代が下って1700年前後に、英国のセーバリーやニューコメンが、水蒸気の圧縮を利用した排水装置を発明・実用化、それを改良してより汎用性のある蒸気機関の作成に成功したのが同じく英国のワットです。ボールトンの助言により、上下運動だけでなく、回転運動も行えるようにし、機械の動力源として爆発的に利用されるようになり、これらの技術が産業革命を支えました。(ワットが回転機関の特許をとったのが1782年)。 蒸気機関を鉄道車両に応用したのが英国のトレビシックです。1804年にレールを走らせるのに成功しています。初めて鉄道が営業運転するのは1825年、ストックトンとダーリントン間でなされました(Photo→)。日本初の鉄道の開通は、その44年後です。 日本人が初めて蒸気機関車を知るのは、米国とロシアの軍艦が日本に来航した嘉永6年(1853年)前後でしょう。米国から帰り着いたジョン万次郎は、土佐藩や幕府から要請があって米国の様子を詳述、蒸気機関車の絵も表しています。佐賀藩主の鍋島直正はロシアの軍艦上で動く蒸気機関車の模型に着目、家臣にその研究を命じました。2年後には中村
明治政府は早くも明治2年に新橋-横浜間の鉄道建設を決定、英国の資本と技術の援助を受けて遂行しました。明治3年に来日して鉄道の技術主任になったエドモンド・モレルは、枕木を木製にするなど日本の実情にあった敷設を提案、貢献しました(モレルは鉄道開業前に結核で死去。横浜の「外国人墓地」に眠る Map→)。翌明治3年から測量が始まり、測量方として咸臨丸で活躍した小野友五郎も参加しています。 日本側で指揮をとったのが、鉄道頭の井上 勝です。井上は幕末に伊藤博文らと英国に密航、鉄道について学んだ経験がありました(Photo(東京駅近くに立つ井上の銅像)→)。 保守点検の要員の詰所が新橋停車場近くにできたため、品川停車場と川崎停車場の間の詰所が不要になり、その詰所が明治9年、当地(東京都大田区)の「大森停車場」になりました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |