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大正7年9月12日(1918年。
からの1週間、和辻 洋画がなぜ目の前のモノの写実に熱心で(大正9年まで院展にも彫塑部と洋画部があった)、日本画が想像画に熱心なのかを考察。日本画のこの傾向を、「画材の特質や伝統からくる」としつつも、そのマンネリズムを批判します。 そして、それを打破しようと試みる作家として川端龍子(33歳)と小林古径(35歳)を取り上げました。ただし和辻は、2人の“冒険”を評価しつつも、辛辣です。 龍子の「慈悲光礼讃」という絵については、 ・・・それらの形象を描くために用いた荒々しい筆使いと暗紫の強い色調とは、果たして「力強い」と呼ばるべきものだろうか。また自然への肉薄、あるいは自然への と、「初めに効果ありき」の龍子の一面を見事に
龍子は前年(大正6年32歳)に院展の同人に推挙されたばかりの駆け出しでした。龍子としても上の批評で思い当たるところがあったでしょうが、それをマイナスに受け取らず、自分のその特質を再確認して、その方向(効果的な表現の追求)を加速していった感があります。 古径の「いでゆ」については、構図と色彩計画が斬新なのに破綻がないのを高く評価しつつも、 ・・・難を言えば、どうも湯の色が冷たい。透明を示すため横線を並べた湯の描き方も、滑らかに重い温泉の感じを消している。それに湯に浸った女の顔が全体の気分と調和しない。あの首を前へ垂れた格好も(画の統一のため仕方がないとは思うが)、少し無理である。 と、やはり相当手厳しいです。 古径は、横浜の豪商・原 三渓の庇護を受けた院展派の一人で、この「いでゆ」も三渓に買い上げられています。ところが、古径は、和辻の批評に思いあたるところがあったのか、作品を手元に戻し、修正を加えたそうです。だとしたら、現在の作品は修正後のもので、和辻の批評はもう当たらないかもしれません。和辻も三渓の所に出入りした一人で、古径とは三渓をめぐるコミュニティのいわばお仲間。でも和辻は、内輪ぼめに堕しませんでした。
龍子も古径も「批評に足る存在」だったので、和辻は突っ込んで論じたのでしょう。両者はその後大作家に育ちます。和辻の目は確かだったのです。「才能ある作家」は「才能ある批評家」に見出されてその“本質”が
近年ではTVやネットに、相手を凹ます(論破する)のを目的とした“似非批評”が溢れているので、「批評」「批判」全般を嫌悪する人もいるかもしれません。それが、相手を凹ますための“似非批評”なのか、正当な「批評」「批判」なのか峻別する必要があります。 そして、“似非批評”は批評空間を汚すので、“似非批評”をする人たちのことは凹ます必要はあります。彼らには正当な「批評」「批判」 が通用しないので(彼らには理解(受け入れることが)できないので)、しようがありません。ややこしいですが、凹ますのを目的に凹ましているのか、凹ますことを目的に凹ましている人を凹ましているのかも、峻別する必要があります。 正当な「批評」「批判」であれば、それを聞く耳を持った作家を育て磨くことでしょう。
青山光二が川口松太郎の小説を評して、登場人物が「いかんせん川口式」と書いたところ、14歳年上の川口から以下のようなハガキが青山の元に届きました。 ・・・たいへん痛いところを突かれました。 川口式人物になっているという点が痛かった。これも 広津和郎は、小説『さまよへる琉球人』が沖縄青年同盟から批判された時、極めて誠意ある態度を取っています。 井上 靖も、小説『蒼き狼』が大岡昇平の「批判」を受けたあと、反論しつつも、大岡からの批評の趣旨を以後の作品に生かし新境地を開いていきました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |