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生まれ出ずる逸品(大正8年5月15日、当地(東京都大田区)にて、大倉陶園が創業)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「大倉陶園」のシンボル、ブルーローズ。日野 あつし (「大倉陶園」に招かれた工芸デザイナー。工場の支配人になった)によるデザインだろうか

 

大正8年5月15日(1919年。 当地(大田区志茂田しもだ 小学校(東京都大田区西六郷一丁目4-2 Map→)と大田区立志茂田中学校(同4-10 Map→)がある辺り Photo→)で、「大倉陶園」の工場建設のための地鎮祭がとり行われました。この日「5月15日」が「大倉陶園」の創立記念日となります。

大倉孫兵衞 大倉和親
大倉孫兵衞
大倉和親

創業したのは、大倉孫兵衞まごべえ (76歳)と大倉 和親かずちか (43歳)の父子です。花のように美しい陶磁器を作りたいとの思いから、社名に「園」をつけたとか。

孫兵衞は日本初の民間貿易商社「森村組」の創設に参画、最初は主に米国の陶磁器の買い付けをしていましたが、後に欧米のより高品質な陶磁器を作る夢を持ちます。利益のためにではなく、ともかく、最高のモノを作りたいとの思いでした。そして、当地に工場を構え、2年後に満足のいく陶磁器が完成。ところが、孫兵衞は大正10年(78歳)に死去、ぎりぎり完成品を見ることができませんでした。

「大倉陶園」の陶磁器は、昭和12年のパリ万博で名誉大賞を受賞、皇室にも納品されるようになり、現在に至っています。

「大倉陶園」には広大なお花畑があり「お花の工場」と親しまれた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:徒然想/鎌倉・戸塚、急ぎ旅 -お花の工場 その2- → 「大倉陶園」には広大なお花畑があり「お花の工場」と親しまれた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:徒然想/鎌倉・戸塚、急ぎ旅 -お花の工場 その2- →

「大倉陶園」の敷地は、一部、隣の「黒澤商店 ・タイプライター工場村(以下、「黒澤商店」)」から一部譲り受けたようです。「黒澤商店」も理想を追求した企業でした。

黒澤貞次郎
黒澤貞次郎

創業者の黒澤貞次郎ていじろう (38歳)は、大正3年に当地(現在、「富士通ソリューションスクエア」(東京都大田区新蒲田一丁目17-2 Map→ Photo→)、「大田区民センター(閉館予定?)」(同18-23 map→)があるあたり)に広大な土地を取得、そこに「職住近接」(職場と住まいを近くに設ける)の考えに基づく「工場村」Photo1→ Photo2→を作ります。工場の稼働は、「大倉陶園」創業の1年前(大正7年。プロコフィエフが日本に滞在した年)。

黒澤は、 10歳から薬問屋で働いていましたが、18歳のとき、番頭昇格への道を捨て、単身渡米。住んだ家の主人がタイプライター会社の経営者だったことから、タイプライターに興味を持ち、和文タイプライターを試作、それに成功します。明治34年(26歳)に帰国し、銀座に日本初のタイプライター会社・「黒澤商店」を創立。日露戦争時の極秘文書の作成を皮切りにタイプライターの需要が高まるにつれ、業績を伸ばしていきます(太平洋戦争後、長者番付1位になることも)。

当地にできた「工場村」には、従業員と家族のための住まい(庭も充実 Photo→)のほか、快適に過ごせるよう、食堂、浴場、給水塔Photo→)、菜園、公園、プールPhoto→、テニスコート、幼稚園、小学校なども作られ、単なる「工場村」ではなく、「黒澤村」、「 吾等われら が村」(黒澤の言葉より)と呼ばれて、“村民たち”の誇り、“村民たち”以外の人からしたら羨望の まと となったようです。

黒澤が初めて作ったひらがなタイプライター ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『タイプライターの沿革』(黒澤貞次郎) 当時のひらがなタイプライターによる印字 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『タイプライターの沿革』(黒澤貞次郎)
黒澤が初めて作ったひらがなタイプライター(左)と当時の機器による印字(右) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『タイプライターの沿革』(黒澤貞次郎)

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芹沢銈介
芹沢銈介

染色工芸家の 芹沢銈介 せりざわ・けいすけ が当地(石碑Photo→がある。東京都大田区西蒲田四丁目20 Map→)に工房を構えたのが昭和9年(38歳)。その後、昭和59年88歳で死去するまでの約50年間、当地で創作活動をしました。当地に来る6年前(昭和3年)、大礼記念国産振興博覧会で沖縄の 紅型びんがた (沖縄の伝統的染色)と出会ってからは染色に専念。昭和31年には独自の型絵染の技法の保持者として人間国宝に認定されます。

明治28年、静岡県随一の呉服屋に生まれた芹沢でしたが、(旧制)中学卒業をまじかにした大正2年(17歳)、隣家からの火で家が全焼、実家の家運が一挙に傾きました。画家を志望していましたが(岸田劉生ばりの写実的な絵が残っている)、絵で食っていくことは難しく、断念、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の工業図案科で学びます。卒業後は、図案指導に携わったり、「文金図案社」なる組織を作って広告・看板・店舗のディスプレイのデザインを手がけたりしていました。

その後次第に、自分がデザインした物を直接生み出したい欲求を持つようになって、自分がデザインした編物・刺繍・絞染などを手作りするようになります。展覧会に出品するようになって、審査員の山本 かなえ に高く評価されて、頭角を現しました(大正14年芹沢29歳)。

また、その頃、芹沢に大きな出会いがありました。柳 宗悦との出会いです。芹沢は、柳の『工芸の道』を読んで、雷に打たれるような感銘を受け、一生の道を定めました。

・・・美が自然から発する時、美が民衆に交わる時、そうしてそれが日常の友となる時、それを正しい時代であると誰が云い得ないであろう。私達は過去に於いてそれがあった事を示し、未来に於いてもあり得る事を示す・・・(柳 宗悦『日本民藝美術館設立趣意書』より)

柳らの民藝運動との出会いです。彼らが見出した「地方の人々が日々の暮らしで用いる手作りの用具の美」は、芹沢が求めていたにも関わらず把握しきれずにいたものだったのです。柳らの設立した「日本民藝館」(東京都目黒区駒場四丁目3-33 Map→ Site→)で、芹沢は沖縄の紅型風呂敷とも出会いました。

砂川幸雄『大倉陶園創成ものがたり 〜初代支配人日野 厚のこと〜』(晶文社) 大倉陶園 ブルーローズジャネット(モーニングカップ&ソーサー)
砂川幸雄『大倉陶園創成ものがたり 〜初代支配人日野 厚のこと〜』(晶文社) 大倉陶園 ブルーローズジャネット(モーニングカップ&ソーサー)
『芹沢銈介の日本(別冊太陽)』(平凡社)。監修:静岡市立芹沢銈介美術館 萩原健太郎『暮らしの民藝 〜選び方・愉しみ〜』(エクスナレッジ)
『芹沢銈介の日本(別冊太陽)』(平凡社)。監修:静岡市立芹沢銈介美術館 萩原健太郎『暮らしの民藝 〜選び方・愉しみ〜』(エクスナレッジ)

■ 馬込文学マラソン:
プロコフィエフの『彷徨える塔』を読む→

■ 参考文献:
●『大倉陶園 創成ものがたり』(砂川幸雄 晶文社 平成17年発行)P.66-65、P.70-74 ●『タイプライターの沿革NDL→』(黒沢貞次郎 黒沢商店 昭和2年発行)P.23、P.46-50 ●「大正期の大森・蒲田・羽田/近代工業の展開」(山本定男)※『大田区史(下)』(東京都大田区 平成8年発行)P.270-276 ●「芹沢銈介」(杉原信彦)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→) ●『芹沢銈介の日本(別冊太陽)』(監修:静岡市立芹沢銈介美術館 平凡社 令和3年発行)P.5、P.16-23、P.154-157 ●『蒲田モダン 〜流行は蒲田から〜(大田ヒストリアル) 』(編集:大田観光協会)P.1-7 ●「蒲田マップ にぎわいのまち〜大田区〜」(大田区、大田観光協会、大田区「梅ちゃん先生」推進委員会 平成24年発行) ●「人物伝 黒澤貞次郎 〜報国の想い〜(蒲田モダン)」(大田観光協会)

※当ページの最終修正年月日
2023.5.15

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