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昭和36年10月21日(1961年。 中村光夫(50歳)が「東京新聞」に「散文芸術の一面」という文章を掲載(10月21日、22日、23日と3日連続して連載)、戦後の文学論争で最大規模といわれる「純文学論争」に一石を投じます。中村は純文学と大衆文学それぞれがそれぞれの枠(型)を作り上げて、その枠の中に安住しているのに疑問を呈しました。 「純文学論争」は、数ヶ月前からくすぶり始めていました。「群像」(講談社。昭和21年創刊。戦前からある「新潮」「文学界」と並ぶ純文学系の文芸誌)に『常識的文学論』を連載していた大岡昇平(52歳)が、純文学と大衆文学の区別などは必要なしとする傾向を批判、その狼煙を上げたのでした(大岡昇平「文学は変質したか」(『常識的文学論(6)』昭和36年6月))。
その3ヶ月後(9月13日)、平野 謙(53歳)が、大岡の主張にぶつけ、断言するように、「純文学」という概念は「歴史的」(古臭い)とやり始めて、「純文学論争」が一気に燃え広がります。平野は「群像」の十五周年に寄せて「朝日新聞」に書いた一文で、「純文学」の概念は「私小説を中心に確乎不動のものとして定立した時期にだけ妥当するもの」とし、「純文学」を私小説とほぼ同義と捉えるならば、私小説発祥(平野は明治40年発表の田山花袋の『蒲団』ではなく、大正に入ってからの近松秋江の『疑惑』と木村荘太の『牽引』に着目)からその後の約15年間(大正年間とほぼ一致)にだけ、「純文学」という概念は通用するもので、現在(昭和36年当時)においては更新を必要とするものとしたのでした。(平野のこの一文を「純文学論争」の発端とすることが多い)。
平野の上の一文を受けて書かれたのが、伊藤 整(56歳)の「「純」文学は存在し得るか」(「群像」11月号)です。伊藤は最初に、当時の文壇の大変化として推理小説の大流行をあげます。松本清張(51歳)が推理小説の手法で「プロレタリア文学〔プロレタリア文学も純文学の傍流と考えられる〕が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功」し、水上 勉(42歳)が私小説と推理小説の融合に成功したとしました。良心的な作家が平等・博愛を謳うマルクス主義(プロレタリア文学)に関心を払うのは必然としても、彼らは政治にコミットした瞬間から「排他」に加担することになり(部分的核実験禁止条約を巡る左派内での紛糾などに見られるもの)、「良心」を貫くことが困難になってしまうと考察、 その困難を社会的推理小説がやすやすと乗り越えていったと伊藤は論考しました。推理小説の成功を考えるとき、「純文学」というカテゴリーを単独で語ることはもはや意味がなくなったということでしょう。平野の考えを補足したと言えます。 大岡はそれにまた噛み付きました。(「批評家のジレンマ」(「中央公論」11月号 ※上の伊藤の一文と同月))。大岡はこの「純文学」の問題を、一方の衰退、または一方の成功といった「状況」の問題としてではなく、「消費生活の膨張」や「文芸業界の懐事情」といったものによって破壊され始めている文学の「価値」の問題として語りました。令和6年の現在におおいてもなお重要な指摘(克服されたようには見えない問題。さらに加速している問題)のように思われます。 ・・・前衛の新風のと、言っているうちに、現代の消費生活の膨張は、あらゆるものを娯楽品、消耗品に変えてしまう。抽象美術はたちまち広告と玩具に転化される。 大岡が危惧したのは、純文学といわれてきた、面白さとか、受けとか、新奇さなどをある意味度外視した、真実追求型の文学が、商業的に成功している松本清張や源氏鶏太などに淘汰されてしまうことでしょう。真実を追求する文学は多くの人に読まれなくても価値があるのだから、「純文学」という孤城は守るべきなのだと。この場合の「純文学」は「反商業主義文学」と言い換えることができるかもしれません。 純文学と大衆文学といったものの境界が現在あるわけではないのでしょうが、「売らんかな」の商業主義に毒された文学・悪しき「大衆文学」(「上げ底文学」「こけおどし文学」)を見破る目は持ちたいですね?
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |