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地名の意味(昭和43年6月2日、久が原で新住居表示に関する公聴会が開かれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和43年6月2日(1968年。 当地(東京都大田区 はら )で、「新住居表示に関する公聴会」がありました。大田区では、新住居表示に対して、区民から反対や疑問の声が多数あがり紛糾、大手メディアもたびたび取り上げ「町名戦争」(毎日新聞)と報道しました。

昭和37年、自治省(平成13年総務省に統合された)の発案による「住居表示に関する法律」(成立時:第2次池田勇人内閣(第1次改造)、自治大臣(国家公安委員会委員長兼務):安井 謙)が施行され、大田区も、5年計画で、調査・立案・区民との協議を始めます。

「慣習的町名・字名あざめい+地番」を、「整理された町名・字名+街区符号+住居番号」とより細やかに三段階で表記し、町(あざ )の境界も、存在する道路・河川・鉄道とすることで、分かりやすくし、郵便事業や商取引などが円滑に行えるよう立案されたようです。

しかし、新表示によって、それまでの自治会圏、氏子圏、通学区域、商店会などの分断が生まれ、強い反対の声が上がったのです。新表示では、入新井いりあらい新井宿あらいじゅく、森ヶ崎、市野倉いちのくら、桐里、梅田、堤方つつみかた、池上徳持とくもち道々橋どうどうばし といったこれまで親しまれてきた町名が住居表示から消えることになります。それは一種の“故郷喪失”であり、“歴史喪失”(過去の文献でこれらの地名がでてきても、理解しづらくなる)でもありました。

分かりやすさを優先して当用漢字で町名を表すことが提案されました。「蒲」も「糀」も当用漢字表にないので、「 蒲田かまた 」が鎌田に、「 糀谷こうじや 」が宝来になるところでしたが、住民ががんばって、旧町名を守りました。

当地に「 薭田 ひえだ 神社」(東京都大田区蒲田三丁目2-10 Map→)がありますが、その名は、すでに、平安時代の歴史書『日本三代実録』(「 六国史りっこくし 」の一つ)の貞観6年8月14日(864年)の項に登場。「薭田」は「蒲田」の読み違えが定着したものと推測され、「蒲田」という地名がその頃から存在したと考えられています。「蒲田」が大田区に残る一番古い村名の一つとされる 所以ゆえん です。

小泉氏の所領周辺の氏神だった子安八幡神社(東京都大田区北糀谷一丁目22-10 map→
薭田神社の鳥居にある「薭田」。境内には円墳があり、筒状の埴輪のかけらとおぼしきものも出土されている。「薭田神社」が古社であることを物語る 『国史大系(第4巻)』(明治30年)に収録された「日本三代実録」には、「薭田」ではなく「蒲田」とある。「武蔵国従五位下蒲田神をもって官社に列す」
薭田神社の鳥居にある「薭田」。境内には円墳があり、筒状の埴輪のかけらとおぼしきものも出土されている。「薭田神社」が古社であることを物語る 『国史大系(第4巻)』(明治30年)に収録された「日本三代実録」には、「薭田」ではなく「蒲田」とある。「武蔵国従五位下蒲田神をもって官社に列す」

「蒲」は植物のガマで、当地のかつての植生を表し、「田」は当地のかつての主な生産形態を表しているのでしょう。

小泉氏の所領周辺の氏神だった子安八幡神社(東京都大田区北糀谷一丁目22-10 map→

中世(鎌倉時代〜室町時代)、「蒲田」を蒲田氏が所領したとされますが、上述したように「蒲田」という地名はすでにあったと考えられ、そこを所領したので蒲田氏と呼ばれたのでしょうし(蒲田氏は元は江戸氏だった)、また蒲田氏の所領した範囲が「蒲田」の範囲を再規定したとも考えられます。

このように、地名には、様々な歴史・地理・産業が刻まれています。

上述のように、「蒲田」が「鎌田」になっていたらと思うとゾッとします。「鎌」の字をあてる意味など、 おん が同じくらいなものですから(「田んぼの稲は鎌で刈るだろう」とこじつけるでしょうか)。鎌倉に「鎌」が付くのには、ちゃんと意味があります。鎌倉あたりの砂浜は砂鉄の含有量が多く(砂が黒っぽい)、その砂鉄を利用して鉄製品が数多く作られ、それらの鉄製品が納める「蔵」が散見されたのでしょう。鎌倉に隣接して「金沢かなざわ」(横浜市金沢区)もあります。これらの鉄製品は武具ともなり、鎌倉幕府の武力を支えました。

「蒲田」と同じようになくなりそうになった「糀谷」の名はいつ頃からあったのでしょう。六郷用水を開削した小泉次大夫の所領の記録に「糀屋村」とあるので、小泉が代官職にあった天正18年(1590年)から職を辞した天和5年(1619年)には存在したとみていいでしょう。現在は「糀谷」ですが、低湿地で谷がちな地形は顕著でないので、元は「糀屋」だったのが推移したのでしょう。 こうじ (麹とも)は、酒や味噌や漬け物や醤油の製造時に用いるものですが、当地はその原料の米の産地だったので、糀を主に扱う「糀屋」が当地の名家として栄え、それが地名になったのでしょうか。

「蒲田」や「糀谷」のように守られた町名もありますが、失われた町名も多々あります。

小泉氏の所領周辺の氏神だった子安八幡神社(東京都大田区北糀谷一丁目22-10 map→

入新井いりあらい市野倉いちのくら桐里きりさと堤方つつみかた の一部が、「中央」という歴史・地勢・植生・産業とは無縁の味気ないものになってしまいました。なぜ、「中央」なのかは、おそらく、当時、今の「大田文化の森 Map→」あたりに大田区役所があったからなのでしょう。当然批判の声が多くあったようですが、結局「中央」になってしまいます。平成10年、大田区役所が蒲田駅前Map→に移転したので、「中央」である意味がさらに稀薄になりました。大田区のだいたい中央あたりなので「中央」でいいんじゃない?という意見もあるかもしれませんが、それにしても味気ない地名ですね。

新住居表示によって多くの町名がなくなりましたが、住民の活動、区の配慮などによって、今もなお、商店街名、店舗名、会社名、通りの名、公園などの施設名、記念碑、標札、バス停名などにその名を留めています。“歴史”や“故郷”を残そうという意地ですね!

学校名に残る「入新井」。明治22年の町村制施行にともない、不入斗と新井宿が合併して入新井となるが、昭和45年の変更で、大森北、中央、大森西、山王となる 学校名に残る「 入新井 いりあらい 」。明治22年の町村制施行にともない、 不入斗 いりやまず 新井宿 あらいじゅく が合併して入新井となるが、昭和45年の変更で、大森北、中央、大森西、山王となる  

愛郷心を育てようというのなら、その地の歴史・地勢・植生・産業・意識・生活などを映し出している地名という「文化財」を大切にしていかなければなりません。

・・・地名の改竄かいざん は歴史の改竄につながる。それは地名を通じて長年培われた日本人の共同感情の抹殺であり、日本の伝統に対する挑戦である。一九六二年に自治省が「住居表示に関する法律」を公布施行して、地名改変を許容し奨励したことによって、戦後日本の大幅な改悪が急激にはじまった。私はそうした自治省を「民族の敵」と呼び、それに抵抗する全国組織「地名を守る会」を一九七八年(昭和五十三) に結成し、それから三年後には川崎市に「日本地名研究所」を設立して現在に及んでいる。私共は地名が日本人の自己確認(アイデンティティ)に欠くことのできないものとして、その保存と研究にささやかな努力をつづけている・・・(谷川健一『日本の地名』より)

日本地名研究所のサイト→

柳田國男『地名の研究 (講談社学術文庫)』。各地に残る膨大な地名から読み取れること。地名学の源流にある書。解説:中沢新一 今尾恵介『地名の謎 (ちくま文庫)』。風変わりな地名の裏事情。ひらがな地名の普及や、縁起が悪いと抹殺された地名などにも言及
柳田國男『地名の研究 (講談社学術文庫)』。各地に残る膨大な地名から読み取れること。地名学の源流にある書。解説:中沢新一 今尾恵介『地名の謎 (ちくま文庫)』。風変わりな地名の裏事情。ひらがな地名の普及や、縁起が悪いと抹殺された地名などにも言及
谷川健一『日本の地名 (岩波新書)』。黒潮や白鳥伝説や中央構造線と、地名との関わりなど 前田速夫『谷川健一と谷川 雁 〜精神の空洞化に抗して〜』(冨山房インターナショナル)
谷川健一『日本の地名 (岩波新書)』。黒潮や白鳥伝説や中央構造線と、地名との関わりなど 前田速夫『谷川健一と谷川 雁 〜精神の空洞化に抗して〜』(冨山房インターナショナル)

■ 参考文献:
●「住居表示制度の実施」(岡田孝一、川城三千雄)※『大森区史(下巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.756-759 ●「大森区詳細図」(日本統制地図株式会社 昭和17年発行) ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.52-53、P. 71-75、P.77-78 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.49 ●「国史体系(第4巻)日本三代実録」(経済雑誌社 明治30年発行)NDL→ ●「日本三代実録」(林 幹彌)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2024.6.2

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