|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』に挿入された田中恭吉のペン画。赤い薬包紙に赤インクで描かれたものが3葉ある ※この頁の図版は「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『月に吠える(精選 名著復刻全集 近代文学館)』、『転身の頌(名著復刻 詩歌文学館)』(日本近代文学館)、『月光とピエロ(愛蔵版詩集シリーズ)』(日本図書センター)
大正4年10月23日(1915年。
田中 田中は萩原朔太郎(29歳)からの依頼で『月に吠える』の装丁・挿画を引き受けていました。 得意の版画は体力的に厳しくなっておりペン画にすること、詩のイメージにこだわらない「わがままな画」で良いことを条件に引き受けたのでした。病魔と交渉しながらペンを運んだと思われる、赤い薬包紙に赤インクで描かれたものも3点含まれます。それらが田中の遺作となりました。 朔太郎兄 私の肉体の分解が遠くないといふ予覚が私の手を着実に働かせて呉れました。兄の詩集の上梓されるころ私の影がどこにあるかと思ふさへ微笑されるのです。 私はまづ思つただけの仕事を仕上げました。この一年は貴重な附加でした。 いろんな人がいろんなことを言ふ。それが私に何になるでせう。心臓が右の胸でときめき。手が三本あり、指さきに透明絞がひかり、二つの生殖器を有する。それが私にとつてたつた一つの真実! 蒼白の芸術の微笑です。かの蒼空と合一するよろこびです。 恭 吉 まるで一編の詩のようです。心情にぴったりの表現の場を得て、病いの中にあっても、心躍り、夢中になり、力を出し切ったのが分かります。「私の影がどこにあるか」の言葉がほのめかすように、田中は、『月に吠える』が上梓されるまで生きながらえることができませんでした(田中の死から1年と3ヶ月ほど経った大正6年2月15日(朔太郎30歳)上梓される)。 『月に吠える』では、朔太郎の病的なまでに研ぎすまされた言葉の合間に、田中の「わがままな画」が姿を現します。単なる絵解きでなく、テキストと対等に存在し、テキストからのイメージと相まって新たなイメージを立ち上がらせます。朔太郎も次のように書いています。 ・・・実に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によつて一層はつきりと凝視することが出来たのである。・・・(萩原朔太郎「故田中恭吉氏の芸術に 朔太郎はこの一冊で、一躍詩壇の寵児となりますが、田中に寄るところも少なくなかったと言えそうです。
田中が病状悪化のため続行不能になり、朔太郎と田中をとりもった恩地孝四郎(24歳)が、足りない分の挿画を描き、装丁も引き継ぎます。カバーの画、口絵、中扉の画を含む最初の11点が田中によるもので、最後の方のカラー版3点が恩地によるものです。 朔太郎が、田中や恩地ら(二人は版画と詩歌の雑誌「
『月に吠える』がそうであったように、この時期、“芸術家の異分野交流”の果実がいくつも実ります。 大正6年発行の日夏耿之介(27歳)の第一詩集『転身の
ちなみに、朔太郎が『月に吠える』を出すにあたって強く意識したのが、戯曲『サロメ』(英訳版。明治27年刊)におけるワイルド(文)とビアズリー(画)のコラボレーション。明治41年から開かれた「パンの会」といった“芸術家の異分野交流”も、パリのカフェ文化が意識されたようです。西洋文化の影響が色濃いですね。 朝夕の2度、テキストとビジュアルのコラボレーションを楽しめるのが、新聞小説。いろいろ面白い試みがなされており、現在(令和2年10月23日現在)、「東京新聞」朝刊で島田雅彦さんの『パンとサーカス』が連載されていますが、作中の秘密サークル「コントラ・ムンディ(ラテン語で「世界の敵」の意)」にちなんで、新進アーティスト6名(岡本瑛里さん、荻野夕奈さん、金子富之さん、熊澤未来子さん、水野里奈さん、山本竜基さん)が同名のユニットを結成、交代でビジュアルを担当しています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献 ※当ページの最終修正年月日 |