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※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. 昭和42年9月29日(1967年。 、三島由紀夫(42歳)がインドのアジャンタ遺跡(Map→)を訪れています(インド政府から招かれ、1ヶ月弱インド各地を巡った)。 その時の見聞が『暁の寺(「豊饒の海」第3巻)』(Amazon→)で生かされているようです。登場人物がアジャンタに行く場面があります。 ・・・案内人の懐中電燈が、光りの 「仏教の遺跡」として予期していたものと違ったのは、おそらく筆者(三島)もそうだったでしょう。 29歳の和辻哲郎(大正7年)も、あのようにエロティックな絵が、アジャンタではなぜ宗教画として描かれたのか思いをめぐらしています。 ・・・理想の姿に描き上げようとする心持も認められない。むしろ男性に対して存在する女性を、誘惑の原理としての女性を、──ただそれだけを アジャンタの石窟が掘られたのは、紀元前2世紀から紀元後7世紀にかけてで、紀元後4世紀ごろからインドの仏教は急速に衰退するようで、その影響もあるのでしょうか。 なぜ、ここで、これが、こう描かれているのかを考えると見えてくるものがあります。 29歳の和辻は、川端龍子と小林古径のことも“料理”しています。●「院展遠望」(和辻哲郎)(青空文庫→) 三島は「暁の寺」でアジャンタの絵画にはさほど深くは言及しませんが、24歳で書いた『仮面の告白』では、グイド・レーニが描いた「聖セバスチャン」について熱く熱く書いています。 あと、三島が好んだのが、ビアズリーのペン画「サロメ」(少女・サロメが伝道者ヨハネの首を要求したという「新約聖書」のエピソードを元にオスカー・ワイルドが書いた戯曲『サロメ』に付された挿絵)や、ドラクロア。横尾忠則によると、三島は『ドラクロアの日記』(Amazon→)を座右の書として、それをイマジネーションの源泉にしたそうです(三島は「音楽でさえ見てしまう」といった“視覚人間”だった)。三島が好んだのはほとんどが“血塗られた”絵画。「(御国のために)死ぬことが推奨された時代」に幼少期を過ごした純粋な魂は、「死」を嗜好(志向)する運命にあったのかもしれません。
------------------------------------------------------ 中原中也(20歳)が、日記(昭和2年9月26日づけ)で、カンディンスキー(60歳。ドイツの「バウハウス」(芸術と建築の合理的な融合を目指し斬新な教育をおこなった学校。昭和8年ナチスにより閉校に追い込まれた)の教官だった)に言及しています。 カンディンスキーが我々の心に訴へない カンディンスキーは、風景・静物・人物といった対象を、円・四角・平行線といった幾何形に単純化し、さらにはそれを再構成して独特な“世界”を作り出しました。単純化のプロセスで作者の情念はほぼ漂白され、できた“世界”はもはや作者の「心」とは無縁のようでもあります。まずは「心」ありきの中也には受け容れがたかったのでしょう。 中也はゴッホが好きだったのでしょうか。『ゴッホ』という本を書いています(名義は安原喜弘)。ゴッホ(没後40年)の絵画は、生き様や心の動きと直にリンクしていて、夜空を描いても、そこには作者の「生き様」や「心」が渦巻いているようです。
文章に出てくる絵画に、著者はどんなものを込めたでしょう。中村文則の『逃亡者』に出てくる「リヒターのステンドグラス」、東山彰良の『怪物』(Amazon→)に出てくる「ポッパーの「飛びかかる黒猫」、稲垣潤一が歌ってヒットした「ロングバージョン」(作詞:湯川れい子)(YouTube→ ※ライブ)に出てくる「コピーのシャガール」(コピーであるところがミソ)などなど。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |