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昭和15年8月31日(1940年。
午前5時30分頃、
なぜ京都の特高かというと、俳句雑誌「京大俳句」がこの昭和15年の2月から弾圧され、最初は関西方面の「京大俳句」会員が捕まってゆき、特高の魔手が、東京、さらに地方へと伸びてきたのでした。 三鬼も「京大俳句」に深く関わっていたのです。 「京大俳句」は、7年前の昭和8年1月、
「京大俳句」は、リアリズム、ロマンチシズム、モダニズムを標榜し、戦争も詠めば、社会・世相も詠み、身近な生活や恋愛も素材にしました。自由闊達の精神を重んじ、積極的に俳句論争も起こし、新興俳句運動を担っていました。 ところが、日本は、「満州事変」(昭和6年)前後から、中国を舞台に数々の紛争(事変・戦争)を仕掛け、それを拡大していきました。昭和13年には国民を全面的に縛りあげる「国家総動員法」を制定し、戦局が厳しくなるにつれ、その適用範囲を広げ、罰則も厳しくしていきました。この昭和15年頃になると、「お国のために全てを捧げる」ことが当たり前になって、個人の自由や権利を主張するなどは以ての外となります。それでも、「京大俳句」の面々は、果敢に、自由の精神を謳い上げ、そして、弾圧の対象となったのです。 三鬼の家は、天井裏までかき回されて、俳句の本に限らず蔵書のほとんどを押収され(警察関係者の小遣いにもなった)、大森署に連行されたあと、その後京都行きの夜行列車が出るまで、東京丸の内署に留め置かれました。
その頃、三鬼は、次のような俳句を作っていました。 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク 逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ 砲音に鳥獣魚介冷え曇る 占領地区の これら戦争の残虐性や非人道性を結晶させた作品は、「けしからん」となるのでしょうが、 昇降機しづかに雷の夜を昇る を、特高は、「雷の夜はすなわち国情不安定なとき、昇降機(エレベーター)すなわち共産主義が高揚する」と解釈して責め立ててきたそうです。彼らの気まぐれで、どんな表現にも「×」をつけることができました。 三鬼は京都に連れて行かれます。特高たちは、自分たちの京都までの汽車賃も三鬼も払わせ、官給される被検挙者の切符代も着服。やりたい放題でした。 そもそも「京大俳句」が狙われたのも、欲づくで、京都府警特高部に新しく就任した中西警部が“成果”を挙げたいがためだったと三鬼は考えました(前任者は「大本教事件」で手柄を立てた)。“成果”を挙げるためにでっち上げられた「横浜事件」(雑誌編集者、新聞記者ら60名が逮捕され、うち4名が獄死)と同じ構図でしょうか。 検挙された三鬼は、新興俳句や自由律の俳人の系図のようなものを見せられ、「仲間を売る」よう誘われます。その系図には、石田 三鬼は2ヶ月間の拘置だけで起訴猶予になったので(句作は禁じられた)、三鬼が特高の協力者になったのではとの疑惑も仲間内で持ち上がりました。昭和54年、小堺昭三が『密告 〜昭和俳句弾圧事件〜』(ダイヤモンド社)で、三鬼を「特高のスパイ」と書き、問題になりました。三鬼の弟子の鈴木 「「京大俳句」弾圧事件」は、昭和15年2月14日(「皇紀二千六百年の紀元節祝賀会」の3日後)の会員8名の検挙に始まり、3回にわたって15人が検挙されました。最新の「京大俳句」(二月号)も押収され、廃刊となります。 2月14日に検挙された平畑静塔(34歳)は「京大俳句」の創立会員で、新進気鋭の精神科医でもありました(若くして兵庫県立精神病院の副院長に抜擢された)。結婚した友人に次の句を贈っています。 ランプ消す外科医と妻は見るは星(静塔) 同じく2月14日に検挙された井上白文地(35歳)も、創立会員で、関西大学と立命館大学で教える秀才でした。 我講義軍靴の音にたゝかれたり(白文地) 同じく2月14日に検挙された中村三山(37歳)も、創立会員で、肺結核を患い療養中でした。 特高が 2月14日に捕まった8人の残りの5人は、 平成30年、マブソン・ローランと金子
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |