
11代目・市川團十郎の助六 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/助六(令和3年4月8日更新版)→ 原典:「演劇界 十一代目市川團十郎(1月号臨時増刊)』(昭和41年発行)
享保10年7月20日(1725年。
「河東節」の初代・十寸見河東
(42歳)が亡くなりました。墓は、当地の浄土真宗(本願寺派)の寺院「
海岸寺
」(東京都大田区本羽田三丁目17-6 map→)にあります。「海岸寺」は元は「築地本願寺」(東京都中央区築地三丁目15-1 map→)の「
塔頭
」(寺の中の寺)で、昭和2年に当地に移転し、復興されたとのこと。十寸見河東の墓も元は築地にあったのでしょうか。
 |
 |
初代・十寸見河東の墓。「十寸見河東」は名跡(代々受け継がれる家名)であり、以下の代の十寸見河東の墓も当寺に並ぶ |
灯籠の三味線のバチを思わせる意匠。当寺には、十寸見河東の相方を務めた河東節三味線の初代から3代までの山彦源四郎の墓もある |
「河東節」とは、享保2年(1717年)、初代・十寸見河東が創始した代表的な江戸浄瑠璃。上方で起こった浄瑠璃が江戸にもたらされ江戸浄瑠璃が生まれたそうです。
浄瑠璃は1500年前後からあり、最初は扇で拍子を取るだけでしたが、1500年代半ば頃、琉球(沖縄)を経由してもたらされた舶来の楽器「蛇皮線
」が伴奏楽器として利用されるようになります。「蛇皮線」は爆発的に普及し、大きな蛇の少ない日本では蛇の皮が足りず、代わりに猫や犬の皮を張るようになって名称も「三味線」になったとのこと(琉球方面では前から「
三線
」という呼び名があった)。
“浄瑠璃”という名は、「平家物語」のように語られ親しまれた御伽草子の「浄瑠璃物語」(Wik→)からきているようです。牛若丸(源 義経の幼名)と浄瑠璃姫(浄瑠璃御前、または三河国の遊女)との情話に霊験譚
(不思議なお話)が絡んだもので、浄瑠璃姫は、ガラス(宝石の「ラピス・ラズリ」「金緑石」とも)のように浄らかで美しい女性なのでしょう。その物語を、「平家物語」の琵琶に代わる楽器(扇や三味線)で、語られ、発展したのが浄瑠璃のようです。
浄瑠璃では、太夫と呼ばれる語り部が歌と語りで物語り、太夫の個性によって「〜節」と呼ばれました。現在、「河東節」を含め、「義太夫節」「
常磐津節
」「清元節」など8流派が存在するそうです。貞享元年(1684年)頃、上方の竹本義太夫(33歳)を元祖とする「義太夫節」が、近松門左衛門(31歳)の戯曲と相まって大ブレイク。「義太夫節」以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼ぶそうです。「河東節」は、「半大夫節」の創始者・江戸半大夫の門下だった江戸太夫河東が十寸見河東と名乗り創始され、「新浄瑠璃(当流)」でしょうか。浄瑠璃が人形劇と合体して人形浄瑠璃(文楽など)となり、浄瑠璃が単独で演じられるのを素浄瑠璃と呼ぶそうです。
最初は人気があった「河東節」も、次第に他のものに押されて歌舞伎ではやられなくなり、主にお座敷の出し物となったようです。そんなことから、十寸見河東も2代目、3代目は吉原住まいだったとか。
現在、歌舞伎で「河東節」が聞けるのは、『助六由縁江戸桜 』(通称:「助六」)だけなんだそうです。助六が花道から出るときの「出端の唄」は、今も「河東節」と決まっているそうです。現在の太夫は「十寸見会(ますみかい)」が務めるとのこと。なお、「河東節」は歌舞伎宗家の市川團十郎のお家芸のため、他家が助六を演じるときは、「出端の唄」も長唄や「常磐津節」や「清元節」となり、外題
も変えるとか。中身はだいたい同じようですが。
「助六」は江戸の古典歌舞伎を代表する演目の一つで、市川家の代表的18のお家芸「歌舞伎十八番」に数えられ、上演回数は「勧進帳」をも越え断トツ1位の超人気演目とのこと。
物語は、源氏の宝刀「友切丸」を探している侠客
(強きをくじき弱きを助ける渡世人)の助六(曽我兄弟の曽我五郎が身をやつしている)が、男が集まる江戸吉原に通って、喧嘩をふっかけて相手に刀を抜かせて「友切丸」を見つけようとします。助六といい仲の
花魁(吉原遊郭での位の高い遊女)の揚巻に言い寄る「髭の意休
」がどうやら「友切丸」を持っているようですが、意休はなかなか刀を抜きません・・・。途中、白酒売に身をやつした兄の曽我十郎や、兄弟を心配して武士の姿に扮装した母も登場、物語が面白くなってきます。
助六のモデルには諸説あって定かでないようですが、正徳3年(1713年)、江戸で最初に「助六もの」を演じた2代目・市川團十郎を熱烈に推す大口屋暁雨という人がいて、江戸の「十八大通
」にも数えられた暁雨のキャラクターを團十郎が取り入れたという説が有力なようです。劇中で助六は曽我兄弟の弟の方(五郎)ということになっていますが、当時人気があった「蘇我もの」をストーリーに取り入れたに過ぎず、実際の曽我兄弟がモデルとは言い難いようです。
助六は、「粋
」を具現化していると定評があるようです。今も「粋だねぇ」とか使いますが、「カッコいい」とか「洗練されている」というだけでは何か足りず、哲学者の九鬼周造は『「いき」の構造』(Amazon→)で、他の言語に類例がないことから、「粋」を日本独自の美的概念とし、「
媚態」(色気)、武士道の「意気地」(反骨精神)、仏教的な「諦念
」(運命と諦め潔く振る舞う)を内包するものと解きました。
|
「助六由縁江戸桜」の冒頭。11代目・海老蔵(近々13代目・市川團十郎を襲名?)の前口上がカッコいい。「歌舞伎座さよなら公演」(平成22年4月。歌舞伎座にて)より |
|
河東節「由縁江戸桜」に合わせて、花道を、12代目・市川團十郎の助六が登場。モテモテ(笑)。Youtubeに全場面アップされている |
歌舞伎の起こりは、1600年前後に現れた出雲阿国
と名乗る女性芸人による、歌や念仏踊りや寸劇の舞台とされます。阿国の舞台の最古の記録は、慶長8年(1603年。江戸幕府が開かれた年)、京都の北野神社の境内や四条河原に、能舞台のような仮の舞台が設けられて催されたというもの。
 |
 |
赤坂治績『江戸っ子と助六(新潮新書)』 |
「助六由縁江戸桜(歌舞伎名作撰)』。12代目・市川團十郎の助六(平成15年1月 歌舞伎座にて) |
 |
 |
田口章子『二代目市川團十郎 〜役者の氏神〜 (ミネルヴァ日本評伝選)』 |
有吉佐和子『出雲の阿国(上) (中公文庫)』 |
■ 参考文献:
●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.60 ●『歌舞伎 〜その美と歴史〜』(河竹登志夫 独立行政法人日本芸術文化振興会 平成29年発行)P.15、P.25
■ 参考サイト:
●ウィキペディア/・河東節(令和3年3月15日更新版)→ ・三味線(令和3年2月28日更新版)→ ・浄瑠璃(平成31年2月17日更新版)→ ・助六(令和3年4月8日更新版)→ ・いき(令和3年4月13日更新版)→ ・11代目・市川海老蔵(令和3年6月24日更新版)→ ●コトバンク/瑠璃→ ●歌舞伎への誘い/主な演目/助六由縁江戸桜→
※当ページの最終修正年月日
2021.7.21
この頁の頭に戻る
|