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極みを生きる(昭和32年2月18日、西堀栄三郎、南極で初めてオーロラを見る)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西堀栄三郎
西堀栄三郎

昭和32年2月18日(1957年。 西堀栄三郎(54歳)が、南極で初めてオーロラを見ました。

・・・夜はすばらしいオーロラを見た。東北の空から西南にかけて、ほとんど全天に乱舞している。木星とともに、実に美しい。頭上をうねりたくるドンチョウが風でゆれるがごとく。気味がわるくなる。恐ろしいようだ。何の音もしない静かな夜だが、何だが、ものすごい音をたてて動いているような錯覚におちいる。・・・(西堀栄三郎『南極越冬記』より)

南極観測船「宗谷」越冬隊11名を残して南極を去ったのが3日前の2月15日。西堀らは前年(昭和31年)11月に日本を出発した第1次南極観測隊による第1次南極越冬隊で、西堀はその隊長でした。

11名はその後の1年、南極という孤絶した氷の大地で過ごします。日本の「昭和基地」は南極の中では比較的温暖とはいえ、8月〜9月になれば-36°ほどにもなりました(南極は南半球なので、北半球の日本とは冬が逆)。1年後に「宗谷」が迎えに来れる保証もありませんでした。「昭和基地」は船が接近しずらい場所にあったのです。

南極大陸 ※NASAが提供している写真を使用
南極大陸 ※NASAが提供している写真を使用

南極は、米国の約1.4倍、日本の約37倍の広さがあり、3,000万年間積もりに積もった雪が1,000m~2,000m(平均1,600m)の厚さで氷床を形成、氷が覆ってない箇所は全体の2%ほどです。全世界の90%もの氷が南極にあり、地球温暖化などによってそれらが全て融けたとしたら世界の海面が60m以上上昇するとか! 一番高い山は標高4,892mのヴィンソン・マシフ山。

クック船長
クック船長

南の果に大陸があることは西暦100年代頃から推測されていましたが、人類が初めて南極に接近したのは1773年(江戸時代中期の後半)で、英国のクック船長らが南極大陸から120kmほどの地点にまで迫りました。テーブル型氷山が多いことから大陸の存在を推測、彼らが「南極大陸の第一発見者」とされるようです。

アムンセン 白瀬矗(のぶ)
アムンセン
白瀬 のぶ

南極大陸を初めて見たのは、ロシア海軍のベリングスハウゼンらで(1820年1月27日)、初の上陸はその3日後(1820年1月30日)、英国海軍のブランスフィールドらが成し遂げたようです。1年後の1821年2月7日、米国のアザラシ漁師のジョン・デイビスによるものが「記録に残る初の上陸」なんだそうです。季節が1月~2月なのは、南半球なので、その頃、気候が比較的安定するからなのでしょう。南極点に初めて達したのが、ノルウェーの探検家アムンセンら(明治44年12月14日)。日本人で初めて南極大陸に達したのが軍人の 白瀬 矗 しらせ・のぶ ら7名。アムンセンらの南極点到達の翌年(明治45年)の1月16日です。 初期の頃の南極探険に軍が関わったのは領土的野心からでしょうか。

戦後7年した昭和27年、国際学術連合会議(現・国際科学会議)が、「国際年」(国際協力して重点的に取り組むその年の課題を明示。国連が定める)の第1回「地球観測年」(昭和32~33年)で南極観測に重点が置かれることを決定しました。観測項目は、オーロラ、大気光、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度の決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動の12項目。日本も参加を表明、西堀らの第1次南極観測隊が結成され、「昭和基地」 Map→もできました。

西堀ら第1次南極越冬隊の11人は、窮屈な観測船「宗谷」から解放されて、これから乗り越えていく困難(プロブレム)に冒険心を躍らせたようですが、それはそれとしても、南極での越冬は生易しいものでなかったようです。

最初の困難は、「宗谷」の接岸地から基地までの荷運びでした。パドル(氷の上の水たまり)や、クラック(氷の裂け目)や、プレッシャー・リッジ(海氷の圧力で盛り上がった氷面)があり、とても危険でした。モタモタしていると荷物を置いた氷面が海の方に流れてしまいます。犬の餌が流れてしまったので、代用の肉を得るためにアザラシ狩りもしなくてはならなくなりました。

「昭和基地」には4つの建物(主屋棟、無線棟、居住棟、発電棟)ができましたが、建物の骨格があるだけで、屋内の立て付けや配線を急がなくてはなりません。ブリザード(地吹雪)が来たらアウトです。過酷な状況の中、機械の配線が焼き切れることもあります。

ブリザードとなれば、建物近くの観測計やトイレ、水汲み場、他棟に移動するのさえ難事となります。油断すれば体が吹き飛ばされるし、10秒で体中が真っ白。通路もトイレの中もたちまち雪が吹きだまり、それをかき出すのも大仕事です。

・・・まず便所だ。わたしは毎朝なからず一度はいく。もちろん防寒具に身をかためている。懐中電灯と小型のショベルをもって、食堂わきの出口の除雪をし、暴風雪の中におどり出る。・・・(中略)・・・誰の足跡もない。したがって入口はいつも内部の雪で押えられて、ブリザードのあとは開かない。体当りですこし戸を押しあけ、ショベルを突込んで、押さえている雪を根気よくとりのぞき、やっと体を中に入れる。ショベルで一ぱい一ぱいかき出すのにひと汗かく。やっと便器に近づいて、蓋をとると、また一ぱいの雪で、一寸の余裕もない。またショベルでかき出す。すべてカチカチになっているので、臭いもしないし、雪と共になっているから、ちっとも汚い気持はしない。凍りついた雪を紙でこすりとって、きれいになった腰かけに新しい紙を敷く。やっと思いがかなえられる。朝のうれしいひとときである。・・・(西堀栄三郎『南極越冬記』より)

こんなことを「うれしいひととき」と書けるくらいのタフさがないと南極ではやっていけないですね。やはり、糞尿問題は切実です。

南極では気温は-93.2°の記録があり(想像もつきません)、風速も昭和基地でも100mに達しました。楽に人が吹っ飛びますね。

西堀は長らく当地(東京都大田区鵜の木一丁目20-1 Map→)に住んでいました。西堀邸の暖炉や家具などは現在「西堀栄三郎記念 探検の殿堂」(滋賀県東近江市横溝町419 Map→ Site→)に展示されています。

南極観測船「宗谷」は現在、「船の科学館」(東京都品川区東八潮3-1 Map→ Site→)に展示されています。

西堀栄三郎 『南極越冬記 (岩波新書)』 神沼克伊『地球環境を映す鏡 南極の科学 ~氷に覆われた大陸のすべて~』(講談社)
西堀栄三郎『南極越冬記 (岩波新書)』 神沼克伊かみぬま・かつただ『地球環境を映す鏡 南極の科学 ~氷に覆われた大陸のすべて~』(講談社)
本多勝一『アムンセンとスコット(朝日文庫) 』。明治44年、ノルウェーのアムンセン隊と英国のスコット隊が南極点初到達を目指した「史上最大のレース」。スコット隊は帰路全員が遭難死する 「南極料理人」(東京テアトル) 。西村 淳の著書が原作。平成9年、南極でも厳しい環境の「ドームふじ基地」(標高3,810m、年間平均気温-54°map→)に派遣された第38次南極地域観測隊の物語。監督・脚本:沖田修一、出演:堺 雅人、生瀬勝久、高良健吾、豊原功補ほか
本多勝一『アムンセンとスコット(朝日文庫) 』。明治44年、ノルウェーのアムンセン隊と英国のスコット隊が南極点初到達を目指した「史上最大のレース」。スコット隊は帰路全員が遭難死する 「南極料理人」(東京テアトル) 。西村 淳の著書が原作。平成9年、南極でも厳しい環境の「ドームふじ基地」(標高3,810m、年間平均気温-54° Map→)に派遣された第38次南極地域観測隊の物語。監督・脚本:沖田修一、出演:堺 雅人、 生瀬勝久なませ・かつひさ高良こうら健吾、豊原功補こうすけ ほか

■ 参考文献:
『南極越冬記(岩波新書)』(西堀栄三郎 昭和33年初版発行 同年発行2刷)P.1-30、P.259-261 ●「南極」(吉田栄夫)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「国際年」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」編集部)コトバンク→ ●「西堀栄三郎(読切歴史人物伝 5)」(「月刊おとなりさん」(ハーツ&マインズ)平成24年7月号に掲載

※当ページの最終修正年月日
2024.2.18

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