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明治35年2月16日(1902年。
真船 豊が福島県郡山市
真船は一日中歌を歌っている少年でした。 唱歌も流行歌も、父親がうなる謡曲も、祖母が口ずさむ江戸小唄を口三味線の調子まで直ぐに覚え歌いました。その歌声にひきつけられて近所の娘たちが集まってきて聞き惚れたそうです。6歳のとき姉の婚礼の席で歌ったところ、感極まって大泣きする人まで出ました。そのくらい真船の歌は人の心を揺さぶりました。10歳の頃、真船は小学校の教師から音楽の道に進むことを強くすすめられます。教師の熱意に動かされて、真船も両親もその気になりました。 ところが、ある日、真船少年は片耳の不調に気づきます。 ・・・その頃、私は妙なくせがついた。父の懐中時計を、そうつと自分の寝床に持つて来て、深夜、その時計を、自分の右の
そして、片耳が聞こえなくなり、教師も音楽をすすめなくなりました。この少年期の“悲しみ”が、その後の真船にどのように影響したでしょう? 真船は早稲田大学英文科在学中に戯曲で秋田雨雀らから高く評価されますが、そんなことには飽き足らず、大学を中退、北海道に渡って牧夫をやりながら、牧場内の感化院「家庭学校」(北海道紋別郡
真船少年に謡曲を指南した祖父は、会津戦争の生き残りです。幕末、会津藩は、朝廷から篤く信任されていたにも関わらず、ドカドカと乗り込んできた新政府軍の策謀によって“朝敵”に仕立て上げられ、打ちのめされました。その“かなしみ”の魂を真船も少なからず受け継いだことでしょう。 古語辞典で“かなし”を引くと、漢字をあてて、「悲し」「哀し」「愛し」とあります。「愛」の根底に「悲」「哀」があることを古人もちゃんとつかんでいました。 片山広子と美しい虹を見た翌年(大正14年)、芥川龍之介が以下の4行詩を書いています。 また立ちかえる水無月の 少年期に片耳の聴力を失った真船は、後年、両耳の聴力を失ったベートーヴェンを意識するようになります。ベートーヴェン音楽のリズムやアクセントからシナリオのセリフを発想、ベートーヴェン音楽の構造も自らの作品に取り入れました。 ・・・第一楽章から第二楽章、それから第三楽章と、いろんなテーマが息もつかせずに現れて来て、ゆるやかになつたり、急激調になつたり、ぐんぐんフィナーレに盛り上がつて行つて、断崖絶壁にさしかかつたと思ふ途端に、ハッと曲が終る。──あの「調子」に、感動して、私は「鉈」〔真船のシナリオのタイトル〕に、そのテムポ、リズムを打出してみたのだった。(真船 豊『孤独の徒歩』より)
真船が影響を受けたベートーヴェンは、20歳台の終わり頃には聴力をほぼ失い、40歳頃には完全に聞こえなくなったようです。幼い頃から音楽一筋でやってきた人が完全に聴力を失うという“かなしみ”(絶望・苦悩と言った方がいいか)はいかほどでしょう。驚きべきことに、ベートーヴェンは、聞こえなくなってから圧倒的に多くの傑作を書いたそうです(ロマン・ローランは1804年からの10年間を「(ベートーヴェンの)傑作の森」と命名)。ベートーヴェンの音楽には、“かなしみ”に裏打ちされた“愛”があふれていることでしょう。 昭和51年に発表されたユーミン(荒井由実。現:松任谷由実)の曲に「晩夏(ひとりの季節)」というのがあります。深い“悲しみ”の後、目の前に広がる、透明で色彩に満ちた“
悲しみを忌避する傾向があるようですが(「暗い話はよせよ」的に)、“悲しみ”の自覚が一片もない人がいるとしたら、その人は、自分や自分に近い人(自分の役に立つ人)しか“愛する”(愛って言えるかな?)ことができないのではないでしょうか? 哀しさも知る瞳にて卒業す(中野喜代子) ・・・Because the sky is blue ------------------------------------------------------
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |