|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
友人(高森文夫)の故郷・宮崎県東郷村でくつろぐ中原中也 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『誰も語らなかった中原中也』(福島泰樹) 昭和7年12月9日(1932年。 小林多喜二(29歳)が、日比谷公会堂(東京都千代田区日比谷公園1-3 map→)で、ハンガリーのヴァイオリニスト・ヨーゼフ・シゲティ(40歳)のヴァイオリンでベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(1806年(ベートーヴェン36歳)の作。「(世界)三大ヴァイオリン協奏曲」の1つ。●シゲティによる演奏 YouTube→)を弟の三吾と聴いています。「生きる喜びを感じた」そうです。多喜二は音楽会が終わると「仕事だ、仕事だ」とつぶやき、三吾に手を振ってそそくさと去って行きました。この頃多喜二は壊滅状態にあった日本共産党の再建に奔走し、同志・杉本良吉の国外逃亡の準備も進めていたようです。多喜二はこの後2ヶ月ちょっとして特高に殺されます。 3年後の昭和10年に発表された太宰 治(26歳)の小説『ダス・ゲマイネ』(第1回芥川賞の最終候補に残った落選者に文藝春秋が書かせた)(青空文庫→)にもシゲティが登場します。3日間開催されたコンサートがどれも不入りで気を損ねたシゲティと飲み明かしたという男が出てきます(デタラメ?)。 太宰が『ダス・ゲマイネ 』を書いた昭和10年、立原道造(21歳)は、油屋で同宿した女優の北 麗子とモーツァルトのレコードを聴き、音楽に傾倒していきます。リリー・クラウスのピアノ演奏会やローゼンシュトック指揮のベートーヴェンの「第九」の演奏会にも足を運びました。立原は堀 辰雄の結婚祝いに、レコード2枚(ヴィットリアの「アヴェ・マリア」(YouTube→)とパレストリイナの「
昭和8年、中原中也(26歳)は結婚、当地(東京都大田区)を去って東京四谷の花園アパートに住み始めます。中也から仏語を習っていた吉田秀和(20歳)は、結婚祝いにモーツァルトの「交響曲39番」(1788年(モーツァルト32歳)作。傑作 YouTubu→)のレコードを贈り中也を狂喜させました。中也の影響もあって音楽評論の道に進んだ吉田は後年「(中也は)誰よりも音楽を知っていた」と語ります。音楽の知識があったというよりは、音楽の本質を直覚する才があったということでしょう。 三島由紀夫は自作『憂国』を映画化する際、自らメガホンをとり、こだわりました。音楽は全篇にわたりワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」(YouTube→)(エッセンスを取り出して編集したもので、レオポルド・ストコフスキーという指揮者によるものらしい)。「トリスタンとイゾルデ」はケルトの説話です。キリスト教によって“精神化”される以前のヨーロッパを好んだ三島らしい選択です。 ロマン・ローランの大河小説『ジャン・クリストフ』(小島政二郎が心の糧にした書)にもワーグナーができてきます。主人公の音楽家ジャンは、ワーグナー音楽の革新性に惹かれる、ワーグナー協会なるものに身を置きます。ところがその会員たちは、ワーグナーを神のように崇め、ワーグナーに一片の疑問すら挟もうとしません。ワーグナーに求めた革新性とは真逆のワーグナー協会をジャンは後にします。 日本では、明治12年、「音楽
そんなドイツやオーストリア音楽主流の中にあって、大田黒元雄(22歳)らは大正4年頃からドビュッシーなどフランスの作曲家のものも取り上げています。 坂口安吾は文学も音楽も絵画も全部つながっているという哲学を持っており、特にドビュッシーとサティを愛好しました。 山本周五郎は当地(東京都大田区南馬込一丁目)にいた頃、近所にいた後の作曲家・石田一郎と親しくしています。レコードを聴きに石田の家をしばしば訪れ、石田はスコアから楽想や表現法の説明をし、音楽論も交されました。ラヴェル、特にその「ピアノ協奏曲」(YouTube→)が好んだそうです。ラヴェルの「スペイン狂詩曲」(YouTube→)の構造(数小節のテーマからの壮大な展開)を生かして、周五郎は『よじょう』(Amazon→)を書きました。 レコードは1857年(黒船来航の4年後)、フランスのレオン・スコットが発明した「フォノトグラフ」を、明治10年頃から、エジソンやエミール・ベルリナーが改良・実用化。蓄音機の輸入と普及を目的にした「三光堂」が浅草・銀座にできたのが明治32年で、日本でのレコードの普及はそれ以後と思われます。当時は相当高価なものだったのではないでしょうか。 和辻哲郎は明治45年(23歳)に結婚し、当地(東京都大田区山王一丁目)に住みますが、その頃、「哲郎の一生に一度の道楽」(照夫人の言葉)のレコード収集に没頭。声楽曲、器楽曲、ベートーヴェンなどを揃えたようです。 真船 豊も当地に住んだ頃(昭和6-13年(29-36歳))、待望の蓄音機を購入、ベートーヴェンを朝から晩まで聴いていたとのことです。戯曲『
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |