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救済=仏道(文永5年10月11日、日蓮、鎌倉極楽寺の忍性を手紙で批判)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良・ 西大寺さいだいじ文殊菩薩もんじゅ・ぼさつ 像 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:国立国会図書館デジタルコレクション/『西大寺大鏡(南都十大寺大鏡 1)』(大塚巧芸社 昭和8年発行)→


文永5年10月11日(1268年。 日蓮(46歳)が、北条時宗、宿屋光則、建長寺の道隆、大仏殿の別当、寿福寺、浄光明寺といった幕府関係者や鎌倉の大寺院にあてて11通の手紙を書いています(「十一通御書ごしょ 」)。その一通は、鎌倉の極楽寺(鎌倉市極楽寺三丁目6-7map→)の真言律宗の僧侶・ 忍性 にんしょう (51歳。通称は良観)にあてられていました。

手紙で日蓮は、忍性を、「人間を軽賎する者(人を軽く見て卑しめる人)」、「矯賊の聖人(ネジ曲がった心を持ち人に害を与える聖人)」、「僣聖増上慢(見かけは聖人でもうぬぼれているだけ)」「国賊」「那落に堕在せん(地獄に落ちる)」とさんざんに罵っています。

日蓮は以前から忍性らを厳しく批判してきました。同年(1268年)、日蓮が指摘した通りに、モンゴルからの恫喝的な国書が届き、日本が侵略される恐れが一挙に高まったことで、日蓮は自分の「予言」(「立正安国論」建白の1年前(正元元年・1259年)高麗がモンゴルに降伏しており、その情報が日本に届いていた?)が的中したことに意を強くしてか、重ねて厳しい手紙を送ったのではないでしょうか。手紙には、「速かに 嘲哢 ちょうろう の心を翻えし 早く日蓮房に帰せしめ給」ともあります。「私に帰依しなさい」とは、大した自信と言うか・・・。日蓮は自分の弟子や自分に帰依した人には暖かく優しいけれど、そうでない人にはとても厳しかったのでしょうか( 折伏 しゃくぶく とかいう言葉からも想像されるように)。

その3年後の文永8年(1271年)、日蓮は、忍性に「祈雨法くらべ」 と「法論」を挑んだとされ、忍性はそれに負け、そのことを恨みに思って日蓮を陥れようとした(「 龍ノ口法難 たつのくちほうなん 」)、と日蓮宗では教えているようです。昭和54年、2年後に控えた日蓮の700回忌を記念して、日蓮の生涯を描いた大作映画「日蓮Amazon→が公開されましたが(原作は川口松太郎の『日蓮』)、映画に登場する忍性(良観。梅津 栄さんが演じた)は、権力にこびる非力で卑屈な嫌〜な僧侶に描かれています。

ところで、日蓮や日蓮宗の人からさんざんに言われる忍性というお坊さんは、どのような人だったのでしょう?

忍性
忍性

忍性は、 建保けんぽう 5年7月16日(1217年。日蓮が生まれる5年前)、現在の奈良県 磯城しき三宅町みやけちょう map→で生まれました。10歳頃から1月に1度ほど母に伴われて信貴山しぎさん朝護孫子寺ちょうごそんしじ 。奈良県生駒郡平群町大字信貴山2280-1 map→ site→)の文殊堂に通い文殊菩薩に親しむようになったようです。 貞永じょうえい 元年(1232年。15歳)、死の床にあった母に懇願されて、家から2kmほどの額安寺かくあんじ (奈良県大和郡山市額田部寺町36 map→ site→ ※本尊は、現在、室町中期作の十一面観世音菩薩だが、忍性の頃は「木造文殊菩薩騎獅像」だった?)で出家します。翌年、東大寺の戒壇院で受戒(戒律(修行者の生活規律)を授けられること)し、竹林寺ちくりんじ文殊菩薩の化身とされる行基の墓がある寺。奈良県生駒市有里町211-1 map→ site→)で修行を重ねました。

忍性は、延応元年(1239年。22歳)、叡尊えいそん (38歳)の弟子になります。

叡尊
叡尊

叡尊は建仁けんにん 元年(1201年)生まれで忍性より16歳年上。興福寺の学僧・慶玄の子で18歳で出家し、高野山で真言密教を学び、戒律の復興と西大寺の再興(地頭の略奪で荒廃していた)を目指して34歳で 西大寺さいだいじ (奈良県奈良市西大寺芝町一丁目1-5 map→ site→)の僧侶になります。鑑真が伝来した律宗でしたが、流派が四分五裂して衰微していました。その戒律を叡尊は実際の修行に取り入れ、自力の精神を尊重する真言律宗を興しました。

忍性はその西大寺再興のための 勧進聖かんじん・ひじり (説法しながら寄付を募る僧侶)をしたことをきっかけに、 延応元年(1239年。忍性22歳)、叡尊(38歳)の弟子になります。叡尊も忍性の文殊菩薩信仰から大きな影響を受けました。

文殊菩薩とはどのような仏なのでしょう。

「三人寄れば文殊の知恵」(一人で考えるより三人で考えた方が良い考えが浮かぶ)という言葉が示すように、文殊菩薩は智慧ちえ (知恵)を司る仏です。知恵とは本来、知識以上のもので、仏教では惑いを去って菩提(悟り)に至る力を指すそうです(学問的な知恵・知識を司るのは 虚空蔵こくうぞう 菩薩)。文殊は、お経に出てくる人物で、釈迦の代理を務めたことなどから菩薩に数えられています。菩薩は菩提を求める衆生(生きとし生けるもの全て)を意味し、悟りのプロセスにある者として、迷い人によりちか しく手を差し伸べる存在として、親しみを持たれつつ崇拝されているようです。そういったことから、慈善事業を司る仏ともされ、その点が忍性や叡尊の仏者としての生き方に影響したと考えられます。

叡尊 えいそん は非人(非差別民)の救済に専念し、それを忍性に託しました。忍性は特定の人だけの救済はむしろ差別を助長すると考えて、非人を含めた広い階層の救済を目指しました。

弘長元年(1261年)、北条重時(63歳。北条義時(2代執権)の3男。忍性を鎌倉へ招聘)、北条時頼(34歳。5代執権)、北条実時さねとき (37歳。日本最古の武家文庫「金沢文庫」の創設者)の信頼をえて、忍性が鎌倉にやってきます。日蓮としては「立正安国論」を幕府に建白した1年後で、7年前から鎌倉で布教している身として面白くなかったのではないでしょうか。

忍性は、聖徳太子による四天王寺(現・大阪市 map→)の 四箇院しかいん (教育の場である「敬田院」、「施薬院」、「療病院」、身寄りのない老人、児童、病人を保護する「悲田院」の4院)の事業を再興し、「癩宿」「福田院」なども作っていきます。189の橋をかけ、71の道を開き、33の井戸を掘ったと伝えられています。歩けない物乞いやハンセン病の患者を自ら背負うという熱心さで、師の叡尊から「慈悲ガ過ギタ」とたしなめられるほどだったそうです。

嘉元かげん 元年(1303年)、極楽寺で死去、満85歳でした。死後25年した嘉暦かりゃく 3年(1328年)、後醍醐天皇が忍性菩薩の尊号を贈っています。

松尾剛次 『忍性 ~慈悲ニ過ギタ〜 』 (ミネルヴァ書房)。戒律「衆善奉行」を愚直に実践した忍性の生涯。福祉の歴史にも名を留める 寺林 峻 『救済の人 ~小説・忍性~』(東洋経済新報社)。「生き菩薩」と呼ばれた鎌倉時代の名僧の生涯
松尾剛次 『忍性 ~慈悲ニ過ギタ〜 』 (ミネルヴァ書房)。戒律「衆善奉行」を愚直に実践した忍性の生涯。福祉の歴史にも名を留める 寺林 峻 『救済の人 ~小説・忍性~』(東洋経済新報社)。「生き菩薩」と呼ばれた鎌倉時代の名僧の生涯
松尾剛次『救済の思想 〜叡尊教団と鎌倉新仏教〜 (角川選書)』 速水 侑(はやみ・たすく)『菩薩 〜由来と信仰の歴史〜 (講談社学術文庫)』
松尾剛次『救済の思想 〜叡尊教団と鎌倉新仏教〜 (角川選書)』 速水 侑はやみ・たすく 『菩薩 〜由来と信仰の歴史〜 (講談社学術文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
川口松太郎の『日蓮』を読む→

■ 参考文献:
●『救済の人 ~小説・忍性~』(寺林 峻 東洋経済新報社 平成10年発行)』P.11-12、P.72-73 ●『大阪の誇り 福祉の先駆者たち 〜挑戦の軌跡〜』(大阪ソーシャルワーカー協会 晃洋書房 平成25年発行)P.14 ●『岩波 国語辞典(第3版)』(昭和38年第1版1刷発行 昭和60年発行第3版9刷参照)P.696 ※「知恵・智慧」の項

※当ページの最終修正年月日
2022.10.9

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