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「愛」の方向性(文永8年10月9日(1271年)、日蓮、土牢の日朗に手紙を書く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日蓮

文永8年10月9日(1271年。 日蓮(49歳)が、鎌倉の 光則寺 こうそくじ (鎌倉市長谷はせ三丁目9-7 map→)の土牢つちろうに幽閉されている弟子の日朗にちろう(26歳。のちに六老僧ろくろうそう日蓮の六大弟子)に指名され、当地(東京都大田区)の本門寺の基礎を築く)に手紙を書いています。 土牢御書 つちろうごしょ と呼ばれるものです。

日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜の寒きにつけても、牢のうちの有様、思ひやられていたはしくこそそうろうへ。あはれ殿は、法華経ほけきょう一部を色心しきしん二法ともにあそばしたる御身おんみなれば、父母・六親ろくしん一切衆生いっさい・しゅじょうをもたすけたまふべき御身なり。法華経を余人よじんのよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。「天の もろもろ童子どうじもって給使をさん、刀杖とうじょうも加へず、毒も害することあた はじ」と説かれて候へば、別の事はあるべからず。牢をばし出でさせ給ひ候はゞ、とくとくきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。 恐々 きょうきょう 謹言 きんげん
 十月九日   
            日蓮
  筑後殿

現代語訳すると、「わたしは明日佐渡島さどがしま に向けて出立します。 今夜は寒い。土牢の中はどんなにかと思いやられ心が痛みます。あなた(日朗を「筑後殿」「殿」と敬称で呼んでいる)は、法華経を言葉の上だけでなく、心でも、身体でも読んだのですから、今では両親、親族はもちろんのこと全ての人をも助けうる尊い身となりました。法華経の第十四章「安楽行あんらくぎょう 」が説くように天の使いがあなたのことを刀杖や毒薬から守ってくれることでしょう。牢を出たらすぐに会いに来てください。会いたいです。あなたの成長を見たいのです。謹んで申し上げます」 といったところでしょうか。

鎌倉で他宗とそれを庇護する幕府を激烈に批判したかどで日蓮は佐渡島に流されることになりました。旧暦で10月9日といえば新暦では11月19日頃でしょうか。これから寒さの厳しくなる時節に北方の島に流されるというのに、日蓮は自分を嘆かず、土牢の弟子に思いを馳せています。土牢での苦難をポジティブに捉え、身体的に辛い中での勤行こそに大きな意味があると励まし、24歳も若い弟子に対して、会いたいとてらいなく伝えています。日蓮の人柄がよく表れています。日蓮は弟子や信者や 折伏 しゃくぶく できる(信者になる)可能性のある人には極めて寛容で優しかったんだろうと思います。

鎌倉の光則寺に残る日朗らが入ったとされる土牢。光則寺は宿屋光則(やどや・みつのり) が自宅を寄進して、日朗を開山として建立したもの。光則は鎌倉幕府5代執権・北条時頼の臨終の際に臨席を許されるほどの高官。日蓮との関わりは長く、日蓮の「立正安国論」を幕府に取り次いだのも光則だった。日朗らを土牢に入れたのは、一種の保護だったのかもしれない 鎌倉の光則寺に残る日朗らが入ったとされる土牢。光則寺は 宿屋光則やどや・みつのり が自宅を寄進して、日朗を開山として建立したもの。光則は鎌倉幕府5代執権・北条時頼の臨終の際に臨席を許されるほどの高官。日蓮との関わりは長く、日蓮の「立正安国論」を幕府に取り次いだのも光則だった日朗らを土牢に入れたのは、一種の保護だったのかもしれない

ところで、愛(プラスの関心を寄せること)は、「他者」(属性がことごとく異なり、考え方も全く異なる人たち)に向けることは可能なのでしょうか?

イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の聖典「旧約聖書」には、「隣人愛」というのが出てきます。

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない(「レビ記」19章18節)

「隣人」(身近な人)には「距離的な隣人」と「心理的な隣人」があると思いますが、そういった身近な人たちを愛おしみましょうと勧めています。「自分(たち)だけが」(「(自分と自分が属するところ)ファースト」というものの考え方)という動物的・非社会的・非協調的な存在からの脱却が目指されたわけです。

西暦0年頃、イスラエルのナザレ(ベツレヘムとも)で生まれたイエスが、「隣人」について革新的な解釈をします。ある律法学者がイエスに「“私の隣人”という場合、その隣人はどのような人を指すのですか」と問うと、イエスは次のようなたとえ話をします。

ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われ、着物をはぎ取られた上に半殺しにされました。倒れている彼のそばを一人の祭司が通りかかりますが、祭司は彼を見なかったことにして向こう側に行ってしまいます。レビ人も通りかかりますが彼も行ってしまいました。ところが、あるサマリヤ人は倒れている人を見て気の毒に思い、傷にオリーブ油とぶどう酒を塗って包帯を巻き、自分の家畜に彼を乗せて宿屋に連れて行きました。翌日、そのサマリア人は用事があって宿を離れることとなりますが、宿屋の主人にお金を渡して彼の介抱を頼み、帰りに余計にかかった費用を自分が払うと宿の主人に言いました。(「新約聖書」の「ルカによる福音書」10章より)

そして、イエスは律法学者に問い返します。「3人のうち、だれが「隣人」ですか?」と。この「善きサマリヤ人のたとえ」は、「隣人」が身分や属性によるものでないことを示唆しています。

コルベ神父
コルベ

日本とも関わりが深いコルベというポーランド出身のカトリック司祭がいました。昭和14年9月1日のナチスドイツのポーランド侵攻(第二次世界大戦の端緒)後もポーランドの修道院に残り、ユダヤ人だろうが誰だろうが分け隔てなく看護したため(コルベのいた修道院は病院としても機能していた)ナチスの不興を買って、昭和16年2月17日、逮捕されてアウシュヴィッツ強制収容所に送られます。同年(昭和16年)7月末(コルベ47歳)、脱走者が出たことを理由に無作為に選ばれた10人が餓死刑になることになりました。その1人に選ばれたポーランドの軍人が妻子を思って嘆くのをみてコルベは、自分には妻子がいない旨伝えて身代わりになって餓死刑を受けます。コルベは、イエスが説いた「隣人愛」の見事な(奇跡的な)実践者でした。

ニーチェ
ニーチェ

もちろん「隣人愛」は尊いものですが、「隣人愛」という考え方が落ちりやすい罠もあり、ドイツの思想家ニーチェがそれを喝破しました。彼は「隣人愛」のもと、群れ、馴れ合うのではなく、孤独から出発して、自己に向き合い、真の友を得よと呼びかけます。そのためにあえて自分から遠い人を愛せよとも(「遠人愛」)。

君たちの隣人への愛によって損害をこうむるのは、その場にいない者たちだ。君たちが五人集まると、いつも六番目の者が犠牲の祭壇にのぼらなくてはならぬ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』より)

ニーチェは「神が死んだ」と書き、隣人愛を否定したと全否定する人がいるかもしれませんが、ニーチェはイエスの思想補足・発展させているような気がします(とはいえ、ニーチェはナショナリズムと親和しやすい面もあるようなので注意が必要)。

内村鑑三『代表的日本人(岩波文庫)』。内村が日本の文化と思想を西洋に紹介するために英文で書いたもの。日本を代表する一人に日蓮をあげている。訳:鈴木範久 マリア・ヴィノフスカ『アウシュビッツの聖者コルベ神父 』(聖母の騎士社)。訳:岳野慶作。長崎で6年を過ごしたコルベ。一燈園も訪れている
内村鑑三『代表的日本人(岩波文庫)』。内村が日本の文化と思想を西洋に紹介するために英文で書いたもの。日本を代表する一人に日蓮をあげている。訳:鈴木範久 マリア・ヴィノフスカ『アウシュビッツの聖者コルベ神父 』(聖母の騎士社)。訳:岳野慶作。長崎で6年を過ごしたコルベ。一燈園も訪れている
ニーチェ『ツァラトゥストラ (中公文庫プレミアム)』。訳:手塚富雄 青木孝平『「他者」の倫理学 〜レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む〜』(社会評論社)
ニーチェ『ツァラトゥストラ (中公文庫プレミアム)』。訳:手塚富雄 青木孝平『「他者」の倫理学 〜レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む〜』(社会評論社)

■ 馬込文学マラソン:
川口松太郎の『日蓮』を読む→

■ 参考文献:
●『日蓮』(川口松太郎 講談社 昭和42年発行)P.304、P.318-319 ●『代表的日本人(岩波文庫)』(内村鑑三 平成7年初版発行 平成17年23刷参照)P.141-146、P.150-153、P.168-177 ●「日蓮真蹟「土籠御書」の所在について」( 定方 晟 さだかた・あきら CiNii→

※当ページの最終修正年月日
2022.10.9

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