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様々な生活と思い(大正5年8月29日、折口信夫、『口訳万葉集』の「はじめに」を記す)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『万葉集』は4.500首ほどあり、その1,700首ほどに植物が出てくる。2〜3首に1首の割合だ。その種類は約160。花では萩が一番詠まれている(143首)。萩は山野に自生し、貴族や 官人かんじん (役人)の家にもよく植えられたようだ。7月〜10月に白や赤紫の花をつける

折口信夫

大正5年8月29日(1916年。 折口信夫おりくち・しのぶ (29歳)が、「万葉集」の初の口語訳『口訳万葉集』Amazon→の「はじめに」を記しています。まだ20代です(上の丸写真はその頃の写真)。

「万葉集」は全て漢字で書かれており、通読するのは難しいものでした。折口は国学院大学国文科を卒業後、大阪府立今宮中学の嘱託教員として2年半(明治44年〜大正3年。24歳〜27歳)教壇に立ちますが、その時の教え子たちが通読できるようにと訳していったそうです。

「万葉集」の4516首(原本は存在せず、複数ある写本に異なる点があるため異論あり)を3ヶ月ほどで完訳。1日50首ほどをこなしたことになります。手元に原文と読み下し文だけを置き、朝9時から夜10時まで、折口が「漢字仮名交じり文」「口語訳」「註釈」をすらすらと口にすると、国学院大学の同窓がリレーで書き取っていったとか。『口訳万葉集』は折口の最初の著書ですが、この口述筆記のスタイルは晩年まで続きます。思考の速度が早く、自らの筆記だけでは間に合わなかったようです。

折口信夫
大伴家持

「万葉集」は、現存する最古の歌集で(奈良時代末頃に完成したとされる)、759年(奈良時代中期)までのおよそ300年間に詠まれた歌があり、作者は天皇・貴族・有名歌人から防人・庶民まで様々、半数近く(2,100首ほど)が作者不詳・皆が口すさんだ歌(東歌あずまうたなど)で、その後の勅撰和歌集などに比べ極めて多様性に富みます。大詰めの編纂に 大伴家持おおとも・の・やかもち (718?-785)が関わったようです。

収録された歌は、 相聞歌そうもんか(親しい人の間で交わされる歌。全体の約4割)、挽歌ばんか(死者を悼む歌。全体の約1割)に分けることができ、どちらにも属さない後の約5割は 雑歌ぞうか。主に短歌で、長歌、旋頭歌せどうか (五・七・七、五・七・七の六句から成る)、連歌、漢詩なども含まれるとのこと。「日本における文学形態の最初の達成」(五味智英)と評されています。

「平仮名」「片仮名」のない時代なので全て漢字で書かれており、漢字を表意文字(例えば、「我」を「われ」)として扱っている場合もあれば、表音文字(例えば、「名津蚊為」を「なつかし(懐かし)」と読ませる。「万葉仮名」)として扱っている場合もあり、また遊戯的な表記(例えば、「八十一」を「くく」と読ませる)なども混在していて、解読は現在にいたるまで試行錯誤が繰り返されています。江戸時代になって、賀茂真淵本居宣長といった国学者が「万葉集」研究を始め、現在に到るまで、斎藤茂吉佐佐木信綱中西 進といった人たちが取り組んできました。

折口信夫

当地(東京都大田区)に関わりがあるとされる歌もあります。

1つは、12巻の3192番

草蔭之荒藺あらい 之崎乃
笠嶋かさじま乎 見乍可
君之 山道超良無

これを折口は「漢字仮名交じり文」で、

くさかげの荒井ノ崎の、
笠島を見つゝか、
君がみ坂越ゆらむ

とし、さらに口語で、

荒井の崎の近くにある、
笠島の景色を眺めながら、
今頃いとしい方は、
箱根の坂を越えて居られることであらう。

としました。冒頭の「くさかげの」は、「荒藺(荒井)」にかかる枕詞なので省略。「君」は、思いを寄せる「いとしい人」です。旅路で気にかかる「山道」といえば、ことに険しい箱根の「みさか(御坂)」(通過する人が神に祈りたくなるほど危険)だろうと膨らませています。「荒井崎の笠島を背に、あなたは今頃、危険な箱根越えの最中でしょうか。くれぐれも気をつけてください」といった相聞歌。

箱根方面から眺められるとしたら「荒藺之埼」が真鶴半島、「笠嶋」が伊豆大島あたりでしょうか。 確かに伊豆大島は笠のようです。

この歌が当地と関係あるとされるのは、「木原山丘陵部の東端」(東京都大田区山王二、三丁目の東端あたり。「国分寺崖線」の末端)あたりが「荒藺 崎」(荒藺が崎、荒藺ヶ崎、荒井の崎、荒藺崎)と、林 述斎じゅっさい (1768-1841)らが説いたからのようです。「木原鈴木系図」にも、「荒藺之崎」に立って見渡せる範囲を、徳川家康が木原吉次に与え、そこが新井宿村になったという記述があるようです。

新井宿村を見渡せる高台といえば、「熊野神社」(東京都大田区山王三丁目43-11 Map→)や 「天祖神社」(東京都大田区山王二丁目8-1 Map→)あたりでしょう。「荒藺之崎」の「崎」は海に突き出た部分です。かつては内陸まで海が来ていました(「縄文海進」)。奈良時代以前は 「熊野神社」や「天祖神社」の下ぐらいまで海が食い込んでいたのでしょうか?

磐井いわい 神社」(東京都大田区大森北二丁目20-8 Map→)内の池の小島に「笠島弁天社」がありますが、歌にある「笠嶋(笠島)」にしてはあまりに小さいです。「磐井神社」あたり全体が笠島状に見えたのでしょうか。当地からの眺望を表した「八景」にも「笠島の夜雨」がありますが、ともあれ、それらは、歌が作られた頃から千年ほども経ってからの言説です。

熊野神社から海の方を見る。埋め立てられて海は遠くなり、建物が遮って「磐井神社」方面はもう望めない 天祖神社の階段左手にある「大森八景」の石碑。第一句目が「笠島の夜雨」。石碑の裏面に刻まれている
熊野神社から海の方を見る。埋め立てられて海は遠くなり、建物が遮って「磐井神社」方面はもう望めない 天祖神社の階段左手にある「大森八景」の石碑。第一句目が「笠島の夜雨」。石碑の裏面に刻まれている

当地に関わるとされるもう一首は、14巻の3373番の「玉川に さら調布てづくり、さらさらに、何ぞ、この の、こゝだかなしき」(訳:折口)。原文の 「多麻河伯」を、当地(東京都大田区)も流れる 多摩川たまがわ (玉川)と読んでいます。「多摩川の水に何度も何度も晒して布作りしている」との上の句が、「さらさらに(何度も何度も)」といういや増す感情を引き出す 序詞じょことば で、これにより、下の句の「なんて、あの娘は可愛いいんだ!」が生きてきます。娘の働く姿に萌えたという、これもやはり「相聞歌」。布作りは女性の仕事で、若い女性が足を出して川に足を浸しているセクシーなイメージも浮かんできます。多摩川沿いは布作りが盛んだったようで、調布、田園調布、布田ふだ染地そめちきぬたといった地名が残っています。

中西 進『万葉集(全訳・注・原文)(一) (講談社文庫) 』 大谷雅夫『万葉集に出会う (岩波新書)』
中西 進『万葉集(全訳・注・原文)(一) (講談社文庫) 』 大谷雅夫『万葉集に出会う (岩波新書)』
大貫 茂『万葉の花100選 〜古歌でたどる花の履歴書〜』(淡交社) 小川靖彦『万葉集 〜隠された歴史のメッセージ〜 (角川選書) 』
大貫 茂『万葉の花100選 〜古歌でたどる花の履歴書〜』(淡交社) 小川靖彦『万葉集 〜隠された歴史のメッセージ〜 (角川選書) 』

■ 参考文献:
●「万葉集と花」(制作:石井友恵 「東京新聞」の「世界と日本 大図鑑シリーズ」No.1424) ●「新国学への志向 〜明治39年-大正3年〜」「まれびと来訪の実感 〜大正4年-昭和2年〜」「古代研究の深まり 〜昭和3年-昭和20年〜」(岡野弘彦)、「略年譜」(一ノ関忠人)※『折口信夫(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.33-39、P.66-67、P.106-107 ●『折口信夫全集 第四巻』(中央公論社 昭和29年初版発行 昭和57年発行三版)P.3-10 ●「万葉集」(五味智英)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●「くさかげの」「御坂」※「旺文社 古語辞典(新版)」(昭和35年初版発行 昭和58年発行重版) ●『大田区の史跡散歩』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.9-10、P.16-17 ●「幕藩体制の成立と村落/村々と領主」(並木克央) ※「大田区史(中巻)」(東京都大田区 平成4年発行)P.69-70 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.27 ●「万葉集(第十二巻)」WIKISOURCE→ ●「足柄峠・矢倉岳」(Hitosh)悠々人の日本写真紀行→ ●「箱根にドライブ!」(あきちゃん☆)あきちゃん⭐︎のブログ→ ●「「多摩」か「玉」か 六玉川へ」(柳沢敦子)(「ことばマガジン」(朝日新聞社)→

※当ページの最終修正年月日
2023.8.29

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