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地勢と文学(昭和11年1月25日づけ、稲垣足穂の「馬込日記」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

稲垣足穂

昭和12年1月25日(1937年。 、当地の衣巻省三の家(東京都大田区南馬込四丁目31 map→)に居候していた稲垣足穂(36歳)が、日記に次のように書いています。

・・・室生さんを訪れようとして大迂回うかいをやってしまった。この 九十九谷くじゅうくたに の道路ときたら、直角が直角でなく、平行線というものの総てが何時しかあらぬ方角へ逸れてしまう事ちょうど非ユークリッド幾何学の作図みたいだ。・・・(稲垣足穂「馬込日記」より)

当地の道の複雑さに閉口したようです。

文中の「室生さん」は室生犀星のことで、犀星も同じ南馬込(一丁目49-10 map→)に住んでいましたが、衣巻邸から行くとなると、たしかにかなりややこしいかもしれません。当地は文中にあるように「九十九谷」と呼ばれ、起伏に富み、それを縫うように、または避けるように道がつけられているため、全く碁盤の目になっていないのです。

尾崎士郎

やはり南馬込(四丁目28-11 map→)に住んだ尾﨑士郎には、ずはり「九十九谷」という短編小説があります。その冒頭は、

 郊外の牛追村ほど小さい道路のかさなりあつてゐるところはあるまい。すべての道がぬけ道であると同時にどの道も迷路である。うつかりあるいていてもすぐ目的地へ出られるかと思ふとまたどんなに気をつけてあるいてゐても途方もないところへ迷ひこんでしまふ。小高い丘の上に立つて眺めると畑地をきりひらいたばかりの赤土の肌を露はにした道が谷から丘へ丘から谷へと入りみだれてゐるが、さてどの道がどつちの方向にむかつてどの道と連絡をたもつてゐるのかといふことになるとこれはまるで見当がつかぬ。乱雑と言へば乱雑であるし無統制と言へば無統制であるがそれだけに底の知れない感じをあたへる。・・・・(尾﨑士郎『九十九谷』より)

住んでいるうちに「こんなもんだろう」と知らずに受け入れていますが、外から来ると(尾﨑も当地に来るまで東京の本郷にいた)、少々面くらうのかもしれません。一行目の「牛追村」は、尾﨑が当地(馬込)を舞台に書く時に使う架空の名で、馬込の「馬」を「牛」に、「込」を「追」に置き換えたのでしょう。尾﨑の『空想部落』Amazon→も「牛追村」が舞台です。

 丘から丘につゞくしい の並木。深い竹薮の中を折りかさなつてゐる落葉の道。それから夕靄ゆうもやである。秋の終りから冬のはじめにかけて靄の深い日がつゞく 。月あかりにぼうつと照らしだされた牛追村うしおひむら の全景が立ち迷ふ靄の中からうかんでくるときの、あのひとときの田園のやすらかさをどうして忘れることが出来よう。誇張して言へば彼等の生活は月光の中に描きだされた一枚の影絵であつた。その頃この村に住んでゐた詩人の浦野空白が、「住めばうれしや牛追村、たがひに見交す顔と顔」とうたつたのも当時の彼等の生活を諷し得て妙なりと言ふべしである。
 まつたく妙なことが次々と起つた。・・・(尾﨑士郎『空想部落』より)

ロマンの香り高い名調子に、「牛追村」へいざな われます。

「九十九谷」には、太田道灌の伝説があります。1400年代中葉(1449~1455年頃)、道灌が江戸城を築城するにあたり、当地もその候補地になったものの「くじゅうく」という読みが「苦重苦」を連想させるからやめたというもの。もう1つ谷があったら、当地に江戸城が建ち、今や皇居になっていたのですよ!?

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九十九谷を形成する丘陵は、「国分寺 崖線がいせん 」(湧き水を吐き出すので「ハケ」とも)の一部にあたるようです。「国分寺崖線」は、立川、国分寺市あたりから世田谷区をへて、終端部の大田区の大森駅あたりに至る武蔵野台地を多摩川が数万年かけて削りとった地形。大森駅あたりでは海の影響も受けているようです。大森駅西口前の池上通りを「八景坂」といいますが、読みの「はっけい」は「ハケ」から来ているとの説もあるとか。武蔵小金井の「はけの森美術館 map→」と大田区の「八景坂 map→」は、「ハケ」でつながっているようです。

崖があれば、そこを越える坂や階段もできます。(リンク:大田区HP/大田区の坂道→

萩原朔太郎

大正15年当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 map→)に越して来た萩原朔太郎は、翌年(昭和2年)、「坂」という詩を発表しました。

・・・私は長い坂を登つて行つた。ずっと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに広茫とした眺めの向うを、遠くの夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切岸(きりぎし)の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見ようとする、詩的なAdventureに駆られてゐた。・・・(萩原朔太郎「坂」より)

国分寺崖線の終端部と考えられる大森駅西口前の天祖神社の急な階段(東京都大田区山王二丁目8-2 map→)は印象的で、いろいろな人が取り上げています。

藤浦 洸

昭和の名曲「別れのブルース」の作詞者・藤浦 洸は、

 大森の駅前はいきなり高台になっている。馬込村に行くには、その急な石段を上らねばならない。この石段の数を勘定したのは宇野千代である。
 その時、尾﨑士郎の書斎には、尾﨑と、牧野信一と榊山潤と私とが待っていた。千代はどこかに金策に出かけたのであった。金策といっても、当座の飲み代をどこかの雑誌社に前借りするという他愛もないものなのだが、待っている方では真剣であった。そこに千代が帰って来た。窓から顔を出して、
「ねえ、駅前の石段は幾段あると思う?」
この突然の質問に誰も返事をしない。またできるわけもないが、それよりもこの質問にまずあっけにとられているのだ。
「六十二段よ。今勘定したの」
これでわかった。金は借りられなかったのである。・・・(藤浦 洸「新文学準備倶楽部」より ※『海風』に収録Amazon→

と、天祖神社の階段とからめて宇野千代を活写しています。今も62段か、皆さんもお確かめくださいね。この階段を、幸田あや・青木たまさん母娘も、高村 薫さんの小説『レディ・ジョーカー』の合田ごうだ刑事も上っています!

萩原朔太郎邸の前も坂道だった 天祖神社の階段
萩原朔太郎邸の前も坂道だった 天祖神社の階段

池波正太郎の『鬼平犯科帳』の「本門寺暮雪」(Amazon→)では、かの 鬼平 おにへい も、危機一髪。〔凄い奴〕を追っているつもりが、本門寺此経難持坂しきょうなんじざか を上りつめようというとき、上から〔凄い奴〕が突然現れる!

『連詩 地形と気象』(左右社)。暁方ミセイ、管 啓次郎、大崎清夏、石田瑞穂、Jeffry Johnson TUGBOAT(岡 康道と麻生哲朗)「坂の記憶 (SPACE SHOWER BOOKs)』
『連詩 地形と気象』(左右社)。暁方ミセイ、管 啓次郎、大崎清夏、石田瑞穂、Jeffry Johnson TUGBOAT(岡 康道と麻生哲朗)「坂の記憶 (SPACE SHOWER BOOKs)』
『東京23区凸凹地図 (高低差散策を楽しむバイブル) 』(昭文社)。編集:昭文社 地図 編集部 原 武史 『地形の思想史』 (角川書店)
『東京23区凸凹地図 (高低差散策を楽しむバイブル) 』(昭文社)。編集:昭文社 地図 編集部 原 武史 『地形の思想史』 (角川書店)

■ 馬込文学マラソン:
稲垣足穂の『一千一秒物語』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
藤浦 洸の『らんぷの絵』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→

■ 参考文献:
●『東京きらきら日誌』(稲垣足穂 潮出版 昭和62年発行) P.115-127 ● 『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行) P.200 ●「国分寺崖線 大田区へ連なる「ハケ」」(「朝日新聞」平成25年10月20日東京版掲載)  ●「大森の“地的”世界」(「大森まちづくりカフェ」平成28年夏号掲載) ●「新文学準備倶楽部」 ※『海風』 所収(藤浦 洸 昭和57年発行) P.231-234 ●『九十九谷』(尾﨑士郎)※『悪太郎』(尾﨑士郎 黎明社 昭和10年発行 NDL→) ●「坂」(萩原朔太郎) ※『田舎の時計 他十二篇』(萩原朔太郎青空文庫→

※当ページの最終修正年月日
2022.1.23

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